巡礼活動
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教会当局は毎年5月の第2日曜日(母の日)の前日を中華聖母の祝日と規定している。この祝日に中華民族のためにイエス・キリストへ祈りを届けて、中華民族を祝福し、国が泰平で民の暮らしも平安であるように聖母に祈願する。毎年5月を巡礼期間と定め、その時期は全国より巡礼者が集まり、5月24日の進教之佑聖母節(扶助者聖母の祝日)にはその最高潮を迎える。 毎年5月の毎日午前9時に、その日の巡礼団の司祭が荘厳ミサの司式をする。午後2時には通りおいて聖体行列が行われ、通りの家は掃除や標語の貼付けと各家の門前に彩色旗を挿す責任を持つ。聖体行列が決められたルートをたどった後に聖堂に戻り、人々は整列して聖堂の裏で跪き、聖体の祝福を待ち、最後に聖堂内に戻る。 1929年から1937年の日中戦争勃発以前は、毎年多くの信徒が東閭まで中国の聖母聖母巡礼に来た。前後して東閭に巡礼に来た教会上層部としては、初代中国駐在教皇使節コンスタンティーニ大司教、第2代中国駐在教皇使節のツァニン司教、北京教区満徳貽司教、安国教区孫徳楨司教、献県教区などの教区司教合わせて20名余、さらに于斌(後に枢機卿に挙げられた)、雷鳴遠などの各地の司祭100名余りである。天津教区司教の文貴賓は毎年5月に必ず東閭に巡礼し、保定教区の周済世司教は更に毎年1回東閭巡礼を行うのみならず、著作物を通した宣伝活動を行った。巡礼者の総数に関しては、東閭小教区のトレモンヌ神父が1931年に行った報告によれば、当年だけで25,000名を越える信徒が巡礼したとあり、また巡礼期間に重病の子供が健康を回復した、盲人の視力が復活した、足の萎えた人が歩けるようになったなどの奇跡が発生したとある。奇跡の報告もありカトリック信仰はますます熱を帯びたものとなり、東間巡礼の人数は増加、華北地区のカトリックの発展において重要な地位を占めるようになった 。 1992年に聖堂が再建されてから、聖体が東閭村の通りを行列するような巡礼活動が短期間復活したが、間もなく制限を受け、僅かに聖堂やその敷地内で挙行出来るのみとなった 。1995年5月23日には3万名の巡礼者が聖母の出現を目撃したという事件も発生したが、1996年には巡礼活動は政府の制限を受けるようになった。天主教愛国会も河北省政府に対し東閭巡礼を復活させるべく申請している。その理由は東閭巡礼の回復は公開教会(愛国会)の司教が信者の中で自らの権威と地位を取る助けとなるからである(河北省保定等の教区の愛国会勢力はバチカンに忠実な地下教会の勢力より弱い)。
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巡礼活動
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毎年5月の「聖母月」に、数万もの各地から来たカトリック信徒は佘山に巡礼に行く。河北省東閭の巡礼活動は政府の統制を受けているので、佘山は中国国内でただ一つの活発で全国的なカトリック巡礼の中心地である。 佘山の巡礼は長年来、伝統で固定された順序が形作られている。信徒は佘山に来ると、先ず中山堂でお祈りをし、佘山の聖母を崇敬して聖母に対する愛を示す。次に曲がりくねった道に沿って列をなして十字架の道行きを祈り、山を登る。十字架の道行きが終わってからさらに大聖堂に入ってミサに与り、聖母に対して慈悲を求める。最後に、再び「三聖亭」に戻りロザリオを祈る。この他にも、伝統的な漁師は江南地区のカトリック教徒の中で比較的大きな割合を占めるので、かなりの漁師の信者が自分で船を漕いで佘山のふもとに行き、そして山に登って巡礼する。5月には佘山附近の小河の岸辺に、少なくない漁師の信徒の小船が集まる。 佘山は公園として旅行者に開放されているので、正門から入ると料金を支払う必要がある。そこで、佘山に巡礼に行くカトリック信者は後側の裏門から入ることを余儀なくされている。
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