巡礼地としてのムルハルト
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「ムルハルト」の記事における「巡礼地としてのムルハルト」の解説
修道院の創設者で初代修道院長となったヴァルテリヒはフランケンの高位貴族家の一員であり、796年頃にムルハルトに来た。一部の歴史研究家は、彼がカール大帝の婚外子であり、ルートヴィヒ敬虔王と異母兄弟にあたるという説を唱えている。ヴァルテリヒは、ルートヴィヒの治世で、皇帝使節や帝国会議において重要な役割を担った。彼は皇帝の聴罪司祭でもあったはずである。840年に亡くなった後、彼はムルハルトの聖マリエン教会に葬られた。ヴァルテリヒについては、彼は奇蹟の人であり多くの病気を治すことができたという伝説があった。その評判は周辺に広まった。ヴァルテリヒの死後、彼の墓への巡礼が教会を訪れるようになった。巡礼者は近くからも遠くからもやって来た。巡礼は毎年受難週に行われ、この小都市は中世からすでに多くの「観光目的の」集客力を有していた。 ヴァルテリヒは、民衆から疾病者の守護者として尊敬された。修道院管財人のヴォルフゼルデン伯ベルトルトは列福を働きかけ、1226年/1227年に成功した。しかし彼は聖人に列せられてはいない。 1534年、聖マリア教会という名前がカトリックを思わせる響きであったため、宗教改革に伴い修道院の附属教会はヴァルテリヒス教会と改名され、墓地教会として利用された。1612年「奇蹟」の墓碑が破壊され、献金箱の一部になった。献金箱はヴァルテリヒス教会の正面入り口脇に、壁で囲まれて置かれている。古い奇蹟信仰は新しい献金箱に引き継がれた。1801年、カトリックの巡礼を終わらせるために、当時のプレラートは墓碑の破片を取り除き、墓を隠した。 宗教改革以後、福音主義の聖金曜日の巡礼だけが1950年代まで行われた。キリストの苦難の道のりを追体験するために人々は「悔悛者の階段」で跪きながら教会の丘を登った。これは20世紀半ばに廃止された。 1512年に製作された木彫の受難像「オリーブ山」は重要であり、現在も聖金曜日から復活祭までヴァルテリヒス教会で見ることができる。 この教会は、ヤコブの巡礼の参詣地である。
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