巡礼前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 07:00 UTC 版)
イブン・ハルドゥーンのマリ歴代王についての包括的な歴史叙述によると、マンサー・ムーサの祖父はアブー・バクル・ケイタといい、口誦で伝えられる歴史に記憶されるマリ帝国の開祖、スンジャータ・ケイタの兄弟であるという。なお、アブー・バクル自身は王に即位することなく、息子でありムーサの父にあたるファガ・ライエも歴史に重要な役割を果たしていない。 当時のマリには、王がメッカ巡礼に行くか、他の難行に挑むかする場合には摂政を立て、王が戻らない場合には摂政を後継者として指名するという習わしがあった。ムーサもこの習わしを経て王に即位した。マムルーク朝の学者アル=ウマリーが著した『諸都市の諸王国に関する視覚の諸道 (Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār) 』によると、前王アブーバカリー・ケイタ2世が大西洋の果てを探す探検に出発する際に、ムーサを摂政に立てた。前王は船に乗り込み、海の果てを目指して旅立ったが、二度と戻らなかったという。マンサー・ムーサはメッカ巡礼の帰りに立ち寄ったカイロで、マムルーク朝のスルタン・アン=ナースィル・ムハンマドからムーサをもてなすよう命じられたカイロの総督イブン・アミール・アジブに次のように語ったという。 先代の王さまは、大地の周りを取り囲む大洋の果てにたどり着くことなどできるわけがないという常識を信じておられなかった。大洋の果てを探検したいと思いなされ、実際におやりになった。まずは、200艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、また、金と水と物資を数年間は持つようにどっさり積み込んだ船団を人の乗り込む舟とは別に用意された。船団の提督には、大洋の果てにたどり着くか、又は、水と食料が尽きてしまうまで、戻ってくるなとお命じになった。そうして先遣隊が出発した。ところがいつまで経っても、一艘も帰ってこない。何ヶ月も過ぎた頃、ようやく一艘だけが戻った。舟の頭は訊問に答えて、「おお、陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもの舟はしんがりを務めておりましたが、前にいた舟は皆、大渦巻に飲み込まれて沈んでしまい、二度と浮かび上がってきませんでした。私はこの流れから逃げて引き返したのでございます。」と述べた。しかしながら、王さまは船頭の言葉に信を置かれなかった。今度は2000艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、王さま自身も乗り組まれた。水と物資も先遣隊より多く1000艘の舟に積み込んだ。そして、不在の間の統治を朕に任せ、配下の者どもと共に旅立たれたのである。しかしながら今までのところお戻りになったことはない。生きていらっしゃるのかどうかも分からない。 —Gaudefroy-Demombynes (1924) による仏訳の英訳の日本語訳。 また、ムーサがメッカ巡礼に行って留守の間には、やはりこの習わしにしたがって、ムーサの息子でマリ王国の次代の王となったマガン・ケイタが摂政に立てられていた。 ムーサは帝位につくと間もなく、将軍サラン・マンディアンの補佐を受けた。マンサ・サクラ以後、2代又は3代続けて非力な王が続き、帝国の威光が陰りを見せていたが、サラン・マンディアンはガオを征服し、略奪や反乱を繰り返すサハラの遊牧民を従わせ、ニジェール川湾曲部と西スーダーンのサヘル全域にわたる広大な地域においてマリ帝国の権威を再強化した。
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