小林秀雄 (批評家)とは? わかりやすく解説

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小林秀雄 (批評家)

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小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年昭和58年〉3月1日)は、日本文芸評論家編集者作家美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。


注釈

  1. ^ 高見澤潤子の『兄小林秀雄』によると、実際の誕生日は3月末だったという。
  2. ^ 本名は高見澤 富士子(たかみざわ ふじこ、1904‐2004)。牛込区(現在の新宿区牛込)出身。東京女子大学英語専攻部卒。高見澤潤子、矗江のペンネーム戯曲小説随筆を執筆。クリスチャンで荻窪教会長老としても活動した。兄・秀雄関係の著作に『兄小林秀雄との対話』講談社現代新書、1970年(昭和45年)、新版・講談社文芸文庫。『兄 小林秀雄』新潮社、1985年(昭和60年)。他に各・海竜社で『生きること生かされること 兄小林秀雄の心情』1987年、『生きることは愛すること 兄小林秀雄の実践哲学』1993年、『人間の老い方死に方 兄小林秀雄の足跡』1995年 がある。「年譜――小林秀雄」小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫1990年平成2年) p.367、吉田凞生「小林秀雄年譜」『群像 日本の作家14 小林秀雄』小学館1991年(平成3年) p.336
  3. ^ 平野謙の母方の祖父の千葉實と小林秀雄の母方の祖母の城谷やす(旧姓・千葉)とは、兄妹の関係にある。
  4. ^ 東京高等工業学校機械科卒業。東京高工助教授となり、文部省から派遣されて、欧米の貴金属界を視察、帰国後御木本貴金属工場の工場長となる。さらに欧米各国の装身具工場を見学。
  5. ^ 1928年昭和3年)2月、成城高校の国語教師村井康男の紹介で、東大在学中の小林秀雄からフランス語教授を受ける」大岡昇平「略年譜」『わが文学生活』中公文庫1981年(昭和56年) p.7という資料もある。富永も大岡も村井門下。
  6. ^ 「編集部員は箕輪錬一(立教出)、鈴木一意(早大出)、水島治男(早大出)、佐藤績(早大出)、上林曉(東大出)と私の六人で、鈴木を除けば、みな学校を出て間のない若手だった。私が一番新参であった。数百篇集った中から最後に二編残った。宮本顕治の『敗北の文学』と小林の『様々な〔ママ〕意匠』である。一等一篇金千円、二等一篇金五百円という規定だったが、どちらを一等にすべきか編集部は迷った。いろいろ議論したがケリがつかないので投票ということになった。結果は三対三。そこで又迷った。小林のは新風に違いないが難解であった。それに反し宮本のは左翼の立場から芥川龍之介を論じたもので、議論は単純明快、言葉に力がこもっていた。結局、左翼文学の勢をふるっていた当時の文壇形勢からしても、『敗北の文学』を一等に推すのが至当ということにきまった。」[2]
  7. ^ このあと『世界文學』1946年(昭和21年)10月号に近代文學同人による座談会「近代文學の反省」が掲載されている。
  8. ^ 後に、チェーホフイプセンなどの西洋劇を見る機会を得て、戯曲の舞台上にあって生きることについて感嘆し、西洋戯曲を論じた文章、対談時の発言を残している。小林秀雄「チェホフ」『批評』1948年11月号所収、『作家の顔』新潮文庫1961年(昭和36年) pp.240 - 248、小林秀雄「『ヘッダ・ガブラー』」『新潮』1950年(昭和25年)12月所収、『作家の顔』新潮文庫、1961年(昭和36年) pp.263 - 275、「悲劇について」『演劇』1951年(昭和26年)6月創刊号 pp.38 - 41、小林、加藤周一対談「演劇の理想像」『演劇』1951年7月号 pp.16 - 24、久保田万太郎、今日出海、永井龍男、小林座談会「オスロ土産話」『演劇』1951年8月号 pp.60 - 67、福田恆存、小林対談「芝居問答」『演劇』1951年11月号 pp.32 - 44
  9. ^ 但し、ランボーを象徴派詩人と見なすか否かについて、小林においては二十代の評価と、それ以後では変化する。
  10. ^ 「だが、もはや私には、彼に関するどんな分析 も興ない。」「アルチュル・ランボオⅡ」『地獄の季節』白水社1930年(昭和5年)所収。(現行タイトル「ランボオⅡ」)小林秀雄『考えるヒント4 ランボオ・中原中也』文春文庫、1980年(昭和55年) p.27
  11. ^ 江藤淳による判断は、「四年前の夏には彼の内外に「現存」していたランボオが、この時はもう回復しようもなく失われているのである」となる。江藤淳「小林秀雄論(四)」『聲』第9号 丸善、1960年(昭和35年) p.59
  12. ^ 実存主義#歴史を参照。
  13. ^ 武者小路実篤主宰の雑誌。武藤康史「小林秀雄交遊緑」『小林秀雄百年のヒント』『新潮』2001年4月臨時増刊 p.299
  14. ^ 小林の年少の知人であった大岡昇平の言葉を借りる。「私は人生も大正文壇も厭悪していたが、芥川の死は、人生は果して生きるに値するものか、自殺すべきか、について考え直しを強いるものだった。(中略)そんな時、村井さんが貸してくれた『大調和』の「芥川龍之介の美神と宿命」は、これらの青春の悩みを解放してくれたものだった。芥川の文学を神経の文学として相対化してくれた。芥川は遺稿で、イエスを書き、ヴォルテール、ボードレールを引用して、思想の文学めかしていた。小林さんは「芥川]を「逆説というものが何であるかを知らなかった逆説家」とこき降ろして、ヴォルテールを知らない少年を安心させた」大岡昇平「教えられたこと」『新潮』4月臨時増刊号、1983年(昭和58年) p.89
  15. ^ 村井さんは、村井康男。当時旧制成城高等学校教師。東京帝国大学文学部国文学科卒。1929年(昭和4年)同人雑誌『白痴群』に参加。同人は、中原中也、富永次郎、大岡昇平、河上徹太郎、阿部六郎、内海誓一郎、古谷綱武安原喜弘、村井。『天上大風』村井康男遺文集 村井福子、1984年(昭和59年) pp.202 - 203
  16. ^ 小林は、『飾画』の前半21篇を『作品』1930年5月創刊号から同年10月号までに訳載。
  17. ^ ランボーのいわゆる「見者の書簡」には進行中のパリ・コミューンへの強い共感を寄せ、将来、労働者として生きる決意を述べた箇所がある。但し、詩作中のランボーはコミューンの戦いには自ら参加するつもりはないと書いている。パリ・コミューンにはマルクスも関与していた。
  18. ^ 1931年(昭和6年)ボードレールの『悪の華』5篇を3回にわたり『作品』1931年7月号から9月号に翻訳分載。なお、ランボオ『酩酊船』を同年11月に白水社より刊行。堀内達夫「小林秀雄年譜」『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社1983年(昭和58年) p.263
  19. ^ 初期の小林の評論には「批評とは対象をダシにして自らを語ること」という言及が見えるが、「マルクスの悟達」後で小林は手のひらを返すように「批評とは何としても自らを棚上げすること」と書いている。
  20. ^ 「Xへの手紙」が書かれた段階では、既に卒業したこととして「書物に傍点を附して世の中を理解しようとするような小癪こしゃくな真似」というような自己告白がある。周辺人物による戦後の小林への回想では、ベルクソンの著作を傍線だらけにして、愛着を以て接する小林の姿がある。
  21. ^ 1933年(昭和8年)『文藝春秋』1月号に「『永遠の良人』」を掲載。
  22. ^ 1936年(昭和11年)1月、高齢の旧人、里見弴宇野浩二豐島與志雄廣津和郎を排除し、『文學界』同人を改組。断りに行く役は小林が果たした。新たに加入したのは、村山知義島木健作森山啓舟橋聖一阿部知二、河上徹太郎。江藤淳「小林秀雄論(完)」『聲』第10号 丸善、1961年(昭和36年) p.70、74
  23. ^ 『青年』では、長州の高杉晋作井上聞多伊藤俊輔、さらにアーネスト・サトウといった幕末の青年群像の姿が描写されている。
  24. ^ 検挙された戸坂が仮釈放された時期には、小林は哲学者三木清と共に、明らかに戸坂への共感を意識させるような対談を行っている。三木もまた共産党員の逃亡を手助けしたかどで検挙され、拘留状態のまま戦後間もなく獄中死した。
  25. ^ このとき中野重治も論争相手であった。
  26. ^ 1937年6月号に大岡昇平が「チャーチル『世界大戦』の書評」を発表。この頃、小林、河上は『文學界』を総合雑誌に近づけようという編輯方針を持っていた。大岡昇平・聞き手『わが文学生活』中公文庫1981年(昭和56年) p.81
  27. ^ 戦後になって小林は、キルケゴールに影響を受けたと言われるノルウェーの戯曲家イプセンについての作家論「ヘッダ・ガプラー」において、その作品『人民の敵』中の「自由主義者とは、自由人が迎え撃つべき最も狡猾な敵だ」という台詞を引いている。
  28. ^ 初出誌不詳。のちに1946年(昭和21年)林著『歴史の暮方』に収められる。小林・林の応酬を1969年(昭和44年)、高橋英夫が『中央公論』1月号に「林達夫」として対象化し再録。
  29. ^ 60年安保締結直後1960年(昭和35年)に火野は自裁するが、小林が取締役を務める東京創元社で自身の「全集」刊行の最中であった。
  30. ^ 小林全集に収録されている「文學界」の小林による編集後記は岡本かの子の死について触れた月で終わっている[23]
  31. ^ 出席は、荒正人小田切秀雄佐々木基一埴谷雄高平野謙本多秋五など、「近代文学」創立メンバー。
  32. ^ 「資格審査が煩雑なため」と言われる。小林は当初、講師として明大に勤務を始めたが、戦争協力を始めた時期に教授に昇格している。
  33. ^ 小林に「カラスのいる麦畑」複製画の提供もした宇野千代が経営編集し、その所縁もあり「ゴッホの手紙」ほか小林の原稿の多くを宇野千代が所蔵した。
  34. ^ 小林自身は『ゴッホの手紙』を書簡集の「抄訳」と呼んでいる。[要文献特定詳細情報]
  35. ^ 近代の合理主義的聖書学の父であるフランスのエルネスト・ルナンは、ダーウィンの「種の起源」公表まもない時期に、キリストの「人間宣言」を行って物議を醸した。
  36. ^ 小林はプラトンの著作において、どこまでがソクラテスで、どこからがプラトンであるのかという問題についての自らの見解を表明している。「悪魔的なもの」『講座現代倫理2』筑摩書房1958年(昭和33年)所収、小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫、1990年(平成2年) pp.220 - 221
  37. ^
    プラトンは、どこまでソクラテスという実在の人物を勝手に創作したか、というような問題は殆ど無意味であろう。ソクラテスの登場しないプラトンの「対話篇」など考えられないし、「対話篇」の裡で甦らなければ、この一行も書き遺すことをしなかった賢人は、風変わりな一政治犯として死んでいただろう。ともあれ、「対話篇」に現れるソクラテスの姿には、抗し難い魅力がある。恐らく、この人物に対するプラトンの感嘆の情が、そのまま人間の形をとったものであろうか。この人間の形は分析を拒絶して生きている。プラトンはソクラテスの思想を語ろうとしているのか、ソクラテスを利用して自分の思想を語ろうとしているのか、そういうことは、プラトン自身にもわからなかったことではあるまいか。プラトンはソクラテスの弟子だったと言われるが、この恐るべき実行家に、青年プラトンが、その思想家、詩人としての全未来を賭けたということには、何か不思議なものが感じられる。彼は、そう決意したのか、そう自分自身に誓ったのか。それとも、彼にも彼のダイモンがあって、そう合図されたのか。――「悪魔的なもの」
  38. ^ 西欧キリスト教の宗教裁判が消滅するのは、19世紀半ばの「種の起源」からしばらくしてからのことである。ダーウィン学説が引き起こした論争の影響による「自由化」以前の大学とは、すなわち神学校を意味した。ダーウィン自身も『種の起源』について尋問を受けるために呼び出しをされた。
  39. ^ 単に生物だけにとどまらず、宇宙そのものが進化するという形而上学説。
  40. ^ 今時、ハクスリーやスペンサー、ベルクソンのような古色蒼然たる哲学者を言挙げするのは「死馬に鞭を打つ」ようなものであるという見方はある。これについて科学ジャーナリストのアーサー・ケストラーが『機械の中の幽霊』で、以下のような問題を指摘している。
    ―― SPCDHという頭文字は「死馬愛護協会(Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」の略である。これは世界中に支部をもつ秘密結社であって、私たちの現代の知的気候にかなりの影響を及ぼしている。その活動の数例をあげておかなくてはならない。

    大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。
    ソヴェイエト政府も、スターリン統治時代に、やり方こそ違うがそれに匹敵する規模で、野蛮行為を行った。西欧の進歩派仲間の中でそれに対する公の注意を引こうとする者は、冷戦屋、中傷家、気違いと非難された。スターリンの後継者がこの事実を正式に認めると、それがまだ北京からベルリンまで他の国々を荒らし回り続けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件をただちに死馬であると分類した。

    イギリスの島国根性、階級差別、社会的俗物主義、言葉のなまりで人を品定めしてしまうことなどはすべて死馬であると宣言され、空中をみたすうつろないななきは亡霊が発するものに違いないとされた。アメリカのドル崇拝、物質主義、大勢順応主義についても同じことがいえる。客間の遊びに、この一覧表をもっと続けていくこともできるだろう。 — (アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』pp.530 - 531)
  41. ^ 他に路線変更をした哲学者に現象学の主導者であり、戦後に『危機書』を著したエドムント・フッサールなどもいる。ベルクソンとフッサールは共にダーウィンが『種の起源』を公表した1859年生まれである。
  42. ^ 前年に福田恆存中村保男と共訳出版している。
  43. ^ 出版事情については言葉を濁している。ウィルソンの評価は次作以後、急速に落ち込んでいる。
  44. ^ なお、ここでは、河上の著作のもう一つの主軸たる各個によるインサイダー追究のためのダイナミズムは度外視されている。河上徹太郎『日本のアウトサイダー』中公文庫、1978年(昭和53年) pp.228 - 229、p.245
  45. ^
    ――先日、私がベルグソンの本を捜してゐる事を知つてゐる友人が、“Écrits et Paroles”といふ新刊をとゞけてくれた。それは、今まで、單行本に收められてゐなかつた講演や論文の類を集めたものであつたが、序文を讀んで、はじめて事情が、私には明らかになつた。彼は、死ぬ四年前、一九三七年の一月に、遺書を書いてゐるのであつた。
    「世人に讀んで貰ひたいと思つた凡てのものは、今日までにすで出版した事を聲明する。將來、私の書類其の他のうちに發見される、あらゆる原稿、斷片、の公表をこゝに、はつきりと禁止して置く。私の凡ての講義、授業、講演にして、聽講者のノート、或は私自身のノートの存するかぎり、その公表を禁ずる。私の書簡の公表も禁止する。J.ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されてゐたにも係はらず、學士院圖書館の閱覧者の間では、自由な閱覧が許されてゐた。私の禁止がさういふ風に解される事にも反對する」 — 「感想」(一)
    「感想」(一)『新潮』1958年5月号 p.33
  46. ^ 「ベルグソンの仕事は、この經驗の一貫性(ユニテ)の直觀に基づくのであり、彼の世界像の軸はそこにある。『哲學は、ユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ』」が最終回の結語。
  47. ^ 日米間の通貨レートが変動相場制に移行したのは70年安保の後で、60年安保前後からの高度経済成長はアメリカへの輸出産業によって一方的に支えられていた。
  48. ^ 戦後間もなく小林は吉田満の太平洋戦争版平家物語とも言うべき『戦艦大和ノ最期』の出版に尽力し、その縁で吉田茂の片腕だった白洲次郎の知己を得ることになった。吉田満は後に、逆コースで「名誉挽回」した旧・軍関係者からその作品の戦争への反省の態度について様々なクレームを受けることになる。
  49. ^ 高度経済成長と共にテレビが普及する以前の時代であった。
  50. ^ フロイトの『夢判断』に、「読者はどうぞ私の諸関心を読者自身のものとされて、私と一緒になって私の生活の細々した事の中に分け入って戴きたい。何故なら、夢の隠れた意味を知ろうとする興味は、断乎としてそういう転身を要求するものだからである」との記載があった。この「断乎たる転身」が、ユングの場合、具体的にはフロイトからどのようなことを求められるやりとりになったのかを、小林はユングの『自伝』の記述から引用しながら説明した。「そこには、私をひどく驚かすものがあった」と小林は書き記した。フロイトとユングは訣別し、そのあとで、ユングの『自伝』をアニエラ・ヤッフェが編纂することになるが、自伝編纂の作業が進行するにしたがって、ユングがその出版に難色を示し始めた。ユングによる友人あての書簡を資料としたが、そこには、ユングが自ら強調し追求してきた内的経験の純粋性に苦しむさまが克明に示されていた。それを読まざるをえないヤッフェも追い詰められてきた。そこで、この中断している引用文が書かれた。小林秀雄「正宗白鳥の作について」- 『白鳥・宣長・言葉』文藝春秋、1983年(昭和58年) pp.102 - 107
  51. ^ 作家三島由紀夫は、『文章読本』(中央公論社)で、「日本における批評の文章を樹立した」と評価している。また、「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として森鷗外堀辰雄と共に小林秀雄を挙げている。三島は、「文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである」と述べ、小林秀雄を単なる批評家ではなく、芸術家とみている。
  52. ^ 長年在住した鎌倉市山の上の邸宅は、晩年深い交流があった「吉井画廊」が、長年管理保存していた[52]
  53. ^ 郡司勝義は、全集など多くの著書の編集を担当し、小林の実質的な助手・秘書だった。『小林秀雄の思ひ出』は「文春学藝ライブラリー」で再刊(文庫判、2014年(平成26年))。
  54. ^ 「全集」現行版は第4次で2001年(平成13年)から2002年(平成14年)に刊行。過去は1950年代に創元社で、1960年代 - 1970年代に新潮社で3度刊行された。

出典

  1. ^ 高見沢潤子『兄小林秀雄』新潮社1985年(昭和60年) p.11
  2. ^ 深田久弥「小林秀雄君のこと」『新訂小林秀雄全集・別巻II』「印象II(第二次小林秀雄全集(新潮社版)月報より」。
  3. ^ 『小林秀雄全集別巻2』新潮社刊の中の「年譜」
  4. ^ 朝日新聞1951年(昭和26年)4月1日(東京本社発行)朝刊、p.2
  5. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版1997年(平成9年))p.144
  6. ^ 小林秀雄「蓄音機」『芸術新潮』1958年9月号所収、小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫、1990年(平成2年) pp.169 - 170
  7. ^ 江藤淳「小林秀雄論」『聲』第6号 丸善1960年(昭和35年) p.74
  8. ^ 小林秀雄「ゴッホの手紙(序)」『ゴッホの手紙』角川文庫1957年(昭和32年) p.9
  9. ^ 「小林秀雄氏を囲んで 偉大なる魂に就て 座談會」『世界文學』第3号 世界文學社、1946年(昭和21年)7月 p.84
  10. ^ 江藤淳「小林秀雄論(二)」『聲』第7号 丸善、1960年(昭和35年) pp.61 - 62、高見澤潤子『兄 小林秀雄』新潮社、p.201
  11. ^ 大岡昇平「富永太郎の手紙」『聲』第7号 丸善、1960年(昭和35年) p.7
  12. ^ 『考えるヒント4 ランボオ・中原中也』文春文庫、1980年(昭和55年) p.31
  13. ^ 堀内達夫「小林秀雄年譜」『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社1983年(昭和58年) pp.263 - 264
  14. ^ 「悪胤」より ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳、岩波文庫、1938年昭和13年) p.11
  15. ^ a b 座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『近代文学』1946年2月号、『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年(昭和58年) p.51
  16. ^ 小林秀雄「菊池寛――リアリストといふもの」『文藝春秋臨時増刊・風雪人物読本』1955年(昭和30年)6月刊所収
  17. ^ 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』創元文庫、1951年(昭和26年) pp.25 - 26
  18. ^ 小林秀雄「文芸時評「林房雄の『青年』」『文藝春秋』1934年6月号、『小林秀雄初期文芸論集』岩波文庫1980年(昭和55年) pp.335 - 348
  19. ^ 「文学界二十年のあゆみ」座談会『文學界』1952年4月号、江藤淳『小林秀雄』講談社文庫、1973年(昭和48年) pp.302 - 303
  20. ^ 平野謙・小田切秀雄・山本健吉『現代日本文学論争史 下巻』未来社1957年(昭和32年) pp.117 - 142
  21. ^ 江藤淳「小林秀雄論」『聲』第6号 丸善、1960年(昭和35年) p.72
  22. ^ 小林秀雄「中原中也の思ひ出」『文藝』1949年8月号所収、現代かな遣い採用文『考えるヒント4 ランボオ・中原中也』文春文庫、1980年(昭和55年) pp.67 - 68
  23. ^ 編集後記『文學界』1939年4月号、『小林秀雄全作品 11 ドストエフスキイの生活』2003年(平成15年) pp.107 - 108
  24. ^ 「座談会」河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』冨山房百科文庫、1979年(昭和54年) p.194
  25. ^ 小林秀雄「蓄音機」『芸術新潮』1958年9月号所収、小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫、1990年(平成2年) p.171
  26. ^ 『近代文学』1946年2月号
  27. ^ 小林秀雄「読者」『文藝春秋』1959年9月号所収、『考えるヒント』文春文庫、1974年(昭和49年) pp.37 - 45
  28. ^ 吉本隆明インタビュー「絶対に違うことを言いたかった」2001年(平成13年)3月12日談話『小林秀雄百年のヒント』『新潮』2001年4月臨時増刊 p.199
  29. ^ 白洲明子氏インタビュー「父・小林秀雄」『小林秀雄百年のヒント』『新潮』2001年(平成13年)4月臨時増刊 p.147
  30. ^ 小林秀雄『ゴッホの手紙』角川文庫、1957年(昭和32年) p.5
  31. ^ 前篇は「新潮」に1954年3月号から翌55年12月号まで連載。後編は「藝術新潮」に1956年1月号から1958年2月号まで連載した。普及版を新潮社で刊行した
  32. ^ 「金閣焼亡」第4次小林秀雄全集第8巻、新潮社1978年(昭和53年) p.242、青山二郎、小林秀雄「『形』を見る眼」『藝術新潮』1950年4月号、『文学と人生について 小林秀雄対談集Ⅲ』文春文庫1982年(昭和57年) p.126
  33. ^ 「ニイチェ雑感」『新潮』1950年(昭和25年)10月、『作家の顔』新潮文庫1961年(昭和36年) pp.249 - 262
  34. ^ 「プラトンの『国家』」文藝春秋 1959年7月号、小林秀雄『考えるヒント』文春文庫1974年(昭和49年) pp.18 - 28
  35. ^ 世界の名著53 ベルクソン』 澤瀉久敬責任編集(中央公論社1969年(昭和44年))の解説。
  36. ^ 世界の名著53 ベルクソン』(中央公論社)での、澤瀉久敬解説。
  37. ^ 『中央公論』1958年8月号 - 1959年1月号連載記事、『日本のアウトサイダー』中央公論社1959年(昭和34年)刊行。
  38. ^ 小林秀雄「歴史」『文藝春秋』1959年12月号、『考えるヒント』文春文庫、1974年(昭和49年) pp.60 - 70
  39. ^ 岡潔、小林秀雄「人間の建設」第4次小林秀雄全集別巻1、新潮社1979年(昭和54年) p.237
  40. ^ 「新春放談」『NHK』第一放送、1958年(昭和33年)1月3日
  41. ^ 「現代人の心」『NHK』第二放送、1963年(昭和38年)1月1日
  42. ^ 年譜|東京創元社”. 東京創元社. 2020年10月5日閲覧。
  43. ^ 『考えるヒント2』文春文庫、1975年(昭和50年) pp.10 - 33
  44. ^ 『文學界』1942年11月号・12月号、『モオツァルト・無常という事』新潮文庫、1961年(昭和36年) pp.71 - 86のp.75
  45. ^ 『考えるヒント』文春文庫、1974年(昭和49年) p.184
  46. ^ 吉本隆明インタビュー「絶対に違うことを言いたかった」2001年(平成13年)3月12日談話『小林秀雄百年のヒント』『新潮』2001年4月臨時増刊 p.198
  47. ^ 三島由紀夫『文章読本』中公文庫、1973年(昭和48年) p.111
  48. ^ 三島由紀夫『横光利一川端康成』-『文章講座6河出書房1955年(昭和30年) p.193
  49. ^ 三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」- 『文学的人生論』知恵の森文庫、2004年(平成16年) p.31(初刊は中央公論「文芸特集」 1951年6月号に掲載)
  50. ^ 『小林秀雄全翻訳』(講談社1981年(昭和56年))
  51. ^ 隆慶一郎 『時代小説の愉しみ』 講談社文庫1994年(平成6年)、p.23
  52. ^ 吉井長三『銀座画廊物語 日本一の画商人生』 角川書店2008年(平成20年) pp.168 - 172


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