実戦での使用経過
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太平洋戦争において、日本海軍は戦前の計画通り、散開線配備による潜水艦運用法を開戦冒頭から多用した。 1941年12月の真珠湾攻撃で、日本海軍は大部分の潜水艦をオアフ島真珠湾外に散開線ではなく扇型に配置して湾口監視に用いたが、第一潜水戦隊の4隻だけをハワイ諸島北方・東西に全長120海里のG散開線の配備に就かせた。また、翌1942年1月に引き続きハワイの監視任務に当っていた第二潜水戦隊は、アメリカ空母の出現情報が入るたびに散開線の形成と掃航を命じられ、そのほとんどの場合で目標捕捉に失敗したものの、1月12日に伊6潜水艦が僚艦6隻とともに掃航中に空母「サラトガ」を撃破する戦果を挙げた。 同じく1941年12月のマレー沖海戦では、日本海軍潜水艦10隻がマレー半島東岸に三重の散開線から成る縦深配備を取って、イギリス東洋艦隊の出撃に備えた。うち、伊65潜水艦がイギリス艦隊を発見し、その情報に基づき新たな散開線に移動中の伊58潜水艦がイギリス艦隊を襲撃したが、命中しなかった。伊65潜・伊58潜のいずれもイギリス艦隊を追跡したが見失い、両艦からの報告電文が上級司令部に届かなかったこともあり、その後、潜水艦部隊はイギリス艦隊を捉えることができずに終わった。縦深配備をとったことやイギリス側の対潜警戒が手薄だったことから一定の成果はあったものの、好条件下に多数の潜水艦を投じた割に効果が乏しく、散開線配備の非効率さを示す事例とも言われる。 1942年6月のミッドウェー海戦において日本海軍は、出撃が予想されるアメリカ艦隊を捕捉するため、ミッドウェー島東方に甲散開線(4隻)・乙散開線(7隻)を展開する計画であった。しかし、旧式艦から成る第五潜水戦隊の整備が遅れたことや第2次K作戦のため潜水艦が引きぬかれたことにより、散開線到着が遅れ、所定期日に配備が間に合ったのは11隻中1隻のみであった。黒島亀人連合艦隊参謀は戦後、海軍の常識で言えば西方で散開隊形を概成してから東進して所定の散開線に配備すべきところ、自身の敵情判断の誤りなどから実現しなかったと反省している。所定期日に配備が完了していれば、アメリカ艦隊を発見できた可能性があったと考えられ、ミッドウェー海戦における日本側の敗因の一つに数えられる。海戦後半には、日本艦隊を追撃またはハワイへ帰還すると思われるアメリカ艦隊を捕捉するため、14隻の潜水艦による全長400海里に及ぶ複数の散開線が構成されたが、全く会敵できなかった。 ガダルカナルの戦いを巡っては、潜水艦兵力の集中が行われ散開線での待機攻撃が計画された。伊19潜水艦はK散開線で空母「ワスプ」などを撃沈破し、伊26潜水艦は命じられた散開位置で軽巡洋艦「ジュノー」を撃沈している。この時期の日本海軍潜水艦部隊は一応の戦果を挙げていたが、連合艦隊司令部の満足するものではなく、戦史叢書『潜水艦史』の執筆担当者である坂本金美はその原因を散開線用法に適切さを欠いたことに求めている。なお、伊19潜水艦の戦果は、司令部から命じられた別の散開線への移動前に旧配備地点において得られたもので、司令部の命令通りに散開線移動が実行されていればなかったものと見られる。 ギルバート諸島の戦いにおいて日本海軍は、9隻の潜水艦をギルバート諸島周辺に派遣し、予想されるアメリカ艦隊の動向に合わせて次々と新たな散開線を設定して水上移動で配備変更させた。しかし、散開線外を単独行動中の伊175潜水艦が護衛空母「リスカム・ベイ」を撃沈しただけで、逆に潜水艦6隻を失った。なお、ギルバート諸島の戦いにおける戦訓をふまえ、1944年2月、山崎重暉海軍潜水学校長は、厳格な指揮統制による従来の散開線用法は現状に適合していないなどと批判する意見書を配布したが、上級司令部からは統帥を乱す行為であるとして受け入れられなかった。 1944年6月のマリアナ沖海戦の際にも、アメリカ海軍機動部隊の出撃を捉えるため、事前に多数の散開線が設定された。そのうち第七潜水戦隊に所属する呂100型潜水艦7隻は、5月22日頃までにニューアイルランド島北方に北東から南西へ30海里間隔で連なるナ散開線を構成した。しかし、その行動はアメリカ海軍に察知されてしまい、バックレイ級護衛駆逐艦「イングランド(英語版)」などの対潜掃討部隊により、5月22日の呂106潜水艦を皮切りに5月30日までに5隻が撃沈された。アメリカ海軍は、対潜哨戒機・日本潜水艦の発信した無線方位測定・日本軍の目的からの理論的推理などにより、ナ散開線の設定を割り出したとされる。日本側は5月23日に通信状況から呂104潜水艦が探知された可能性があると判断し(実際に同日午前6時に撃沈)、ナ散開線北半分の呂106潜水艦(すでに前日に撃沈)・呂104潜水艦・呂105潜水艦に南東方向60海里のA散開線へ移動を発令、その後も5月28日には全艦に100海里西方のB散開線へ移動を発令するなどしたが、全艦に撤収時期が発令されたのは6月3日であった。なお、坂本金美(当時は呂41潜水艦長)は、ナ散開線の計画を知って、警戒厳重な海域でこのような配備をすることは危険が大きいから、1隻でも敵に発見された兆候があれば大幅にバラバラに移動するよう第七潜水戦隊司令部に進言していた。6月15日にあ号作戦が発動されて決戦が始まってからも、日本側潜水艦の多くはマリアナ諸島東方に三重に設定された散開線に急行するよう命じられたが、遠くマーシャル諸島やニューアイルランド島北方で散開線配備に付いていた艦が多く集結が遅れた。マリアナ沖海戦における日本潜水艦の損害は参加36隻中20隻喪失という甚大なもので、戦果は全くなかった。 マリアナ沖海戦での敗北後、日本海軍は潜水艦の運用を改正し、単純な線散開ではなく面散開に戦術を切り替えた。1944年8月20日に発令された捷号作戦における潜水艦部隊運用の基本指針では、潜水艦部隊の散開配備位置を幅のある長方形(矩形)に設定した。そして、その長方形に設定された散開配備位置をさらに細かな升目に区切り、個々の潜水艦に割り当てる方式が取られた。台湾沖航空戦やレイテ沖海戦、沖縄戦においては、この長方形の散開面が実際に使用された。
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