実戦での活躍と役割の変化
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第二次世界大戦での実戦で、突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。電撃戦の各場面において、主に歩兵戦闘の支援を行い、敵勢力の重火器制圧に効果を挙げた。一方、初期の突撃砲の指揮車が防御力に劣る装甲ハーフトラックであったため指揮官の損害が多く、後に指揮官も突撃砲に搭乗するように編成が変えられた。 1941年、バルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発動し、ソ連に侵攻したドイツ軍は、圧倒的にすぐれた敵戦車T-34に直面し、すべての装甲戦闘車両は威力不足となった。ソ連赤軍の膨大な戦力に対し長距離行軍を強いられたことから、ドイツ軍の戦車戦力は急激に消耗していった。 東部戦線では、ドイツ歩兵の最大の脅威は敵のトーチカではなく敵戦車であり、突撃砲に求められるのは、敵戦車を破壊できる対戦車能力となった。もともと突撃砲は、対戦車戦闘も想定しており、徹甲弾を発射することができたが、これに加えてベトントーチカ用に配備されていた成形炸薬弾を用いて対戦車戦闘に従事した。のちにドイツ軍の戦車エースとなったミヒャエル・ヴィットマンも独ソ戦初期にIII号突撃砲A型単独で16輌(諸説あり)のソ連赤軍軽戦車T-26を迎撃、うち6-7台を撃破したというエピソードを持つ。 ドイツ軍は、突撃砲の歩兵支援向きの短砲身砲を対戦車戦闘にも有利な長砲身に変更する計画を大戦前から進めており、1940年にはクルップ社にて試作砲が完成して試験が始まっていた。しかし開発中だった新型7.5cm砲ではT-34に対して威力不足と考えられたため、ラインメタル社が新たに提示したより強力な長砲身砲(7.5cm StuK40 L/43及びL/48)を開発搭載することになった。ここに至って突撃砲の任務は、対戦車戦闘の比率が大きくなったといえる。また歩兵支援任務向けの突撃砲として、対トーチカ攻撃用としてより口径の大きな榴弾砲を装備した、10.5cm Sturmhaubitze 42(42式突撃榴弾砲または突撃榴弾砲42型)が並行して量産され、通常の突撃砲と同じ大隊に配備された。この時点で、突撃砲は「歩兵を直接支援するために重装甲にした自走砲」から「回転砲塔を持たず、その重量を装甲防御と火力に振り向けた戦車」へと性格を変えた。 戦車不足に悩むドイツ軍にとって、突撃砲はなくてはならない戦力となった。前述の通り突撃砲は同じ重量の戦車より装甲と火力に勝り、その上、高い工作精度が要求されるボールベアリングの必要な回転砲塔を持たないため、生産工程は戦車よりも少なく済み、大量生産が可能であった。ただし、回転砲塔とそれに付随した機関銃を持たなかったため、敵味方が入り乱れるような状況や、全周対応性の求められる任務には適しておらず、バズーカなどの携行対戦車兵器を装備した歩兵に背後や側面に回られると戦車よりも脆い点が弱点であった。それであっても、ドイツの突撃砲は終戦まで連合国軍相手に歩兵支援や対戦車戦闘で活躍し、ドイツ軍の対戦車戦力の根幹であった。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめることとなったのである。 しかし、砲兵科と機甲科のセクト争いにより、似たような性格の戦闘車両である突撃砲と駆逐戦車を両方生産してしまったという側面もある[要出典]。駆逐戦車的な性格を強めた突撃砲は、大戦中期以降は戦車部隊にも配備され、これは本来の突撃砲運営部隊との間に少なからぬ摩擦をもたらした。配備される突撃砲の取り合いになっただけでなく、砲兵科からは「砲兵が騎士十字章を得る手段が無くなってしまう」(突撃砲兵以外の砲兵は間接砲撃による支援任務主体であり、また直接交戦の機会が多い対戦車砲は歩兵師団の戦車猟兵の装備であるため)などと反発の声が上がった。 なお、武装親衛隊の突撃砲は従来から戦車隊に配備されていたため、国防軍のような問題や軋轢は発生していない。
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