天皇制・天皇観とは? わかりやすく解説

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天皇制・天皇観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 18:38 UTC 版)

高畠通敏」の記事における「天皇制・天皇観」の解説

昭和天皇について 昭和天皇について昭和天皇死去した日の翌日1989年1月8日朝日新聞論壇一身二生と昭和天皇」で、「心情的にはむしろ戦争回避望みつづけた平和主義者であったということであり、また現人神として国民崇敬された天皇が、個人的には、立憲政治信奉する近代的な生物科学であった」とし、昭和天皇平和主義者であった述べている。その上で原爆での犠牲出したことへの批判があることに触れた上で、「日本全土沖縄ドイツのような住民巻き込んで戦場になることを免れ敗戦後のいちやはい復興可能にしたという点で、国民がこの天皇決断に負うものは大きい。」として、御前会議におけるポツダム宣言受諾評価している。十五年戦争止められなかった原因について昭和天皇性格大日本帝国栄光使命感触れた上で、「最大問題は、天皇自身軍部急進派皇道主義者たちの思想反対し、明治憲法立憲主義解釈運用忠実たろうとしたことにあった。」とし、昭和天皇立憲主義者であると評価している。 また、沖縄訪問をしなかったことについて、「昭和六十二年(一九八七)には、国体開催され沖縄始めて足をふみいれることになっていた。それはまた、長い和解の道の終点になるはずでもあった。しかし、それは病気のため果されなかった」と述べている。 この朝日新聞論壇に対して、「(ゼミOB生の一人が、)「先生天皇制に対して寛容なのですね」と問いかけたところ、「そうか」と言って苦い顔をしてそれ以上話されなかったという。 上記以外にも、1989年2月行われたオーストラリアモナシュ大学日本研究科特別講演において、侵略戦争対す昭和天皇の戦争責任について、「彼(=昭和天皇)が日本傀儡である満州帝国樹立上海事変以降中国への侵略自体に対して反対批判の念をもっていたという記録はありません。」とした上で、「一方で中国への侵略拡大しながら、他方英米協調したいというのは、両立するずがないというのが今日常識でしょうが、半世紀前には、一方で第三世界侵略し植民地化しながら平和を唱えることは、日本のみならずヨーロッパにおいても、さほど矛盾とは考えられませんでした。」とし、「パールハーバーへの奇襲に始まる太平洋戦争開戦以後天皇戦勝喜んだという記録見て天皇平和主義はうわべだけのものであったとする人たちもいます。しかし、同時に日本多くリベラリスト近代主義者たちも、開戦同時に一変してナショナリストとなり、戦勝敗北一喜一憂しました。こういう現象は、いわば、世界どこでも共通してます。」として、日本近代主義者リベラリストが同じ思考形態であったことや、ヨーロッパで第三世界侵略植民地化行っており、昭和天皇一人責められる問題ではないとの見解示している。 また、天皇の戦争責任問題核心にあるのは、天皇が、戦時中日本侵略戦争にどれだけ現実かかわったかという意味での政治的な責任問題です。」との見解示した上で昭和天皇の戦争責任追及する立場を取る見解を、「戦中派や一部の左翼評論家は、戦後側近記録現れ天皇のことば尻をとらえて天皇は、このように戦争賛成し指導したという結論引き出すのに躍起になっていますが、それは木を見て森を見ない判断だと思います。」として、否定的な見解示している。 第125代天皇明仁について 明仁天皇については、「戦後中学生になった皇太子当時)は、六三制学校学びまた、バイニング夫人個人的な薫陶受けられた。スケートテニスを好む明る青年として成長され、テニス・コート育まれ愛情貫き通して、皇太子としてはじめ平民との結婚こぎつけられた。そこには新憲法の下で国民親しまれる新し皇室をつくろうという当時皇室をめぐる人びととの配慮と、それに応えようとした皇太子意志を、読み取ることができる。」と好意的に解釈している。 象徴天皇制について 象徴天皇制について、第125代天皇明仁即位の礼が行われた1990年11月12日北海道新聞において「世襲国民統合象徴という日本象徴天皇制は、世界でユニークな存在である。」とし、明仁天皇天皇の地位引き継ぐ際に国民とともに憲法を守るという意思表示をしたことに触れた上で、「象徴天皇制どのようなものとして作り上げてゆくかは、まさに「主権存する国民」の任務である。そして、日本世界大国伍するようになった今、象徴天皇通じて日本国民どのような原則統合されているかを世界に示すことは、ますます大きな意味をもつに違いない」として、日本世界大国であるとの認識踏まえた上で象徴天皇制維持することを前提に、国民統合としての天皇あり方対外的に示すべきとの見解示している。 高畠対す批判上のような見解について、「高畠通敏は、晩節天皇制下での『出世』を計った」との批判がある。また、明仁天皇同年1933年生まれであることから高畠天皇個人対す見解その都度変化する面もあった。著書生活者政治学」において天皇イタリアドイツの大統領同列元首として扱っている件に対して批判がある。

※この「天皇制・天皇観」の解説は、「高畠通敏」の解説の一部です。
「天皇制・天皇観」を含む「高畠通敏」の記事については、「高畠通敏」の概要を参照ください。

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