天皇制・天皇観
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昭和天皇について 昭和天皇について、昭和天皇が死去した日の翌日1989年1月8日の朝日新聞の論壇「一身二生と昭和天皇」で、「心情的にはむしろ戦争の回避を望みつづけた平和主義者であったということであり、また現人神として国民に崇敬された天皇が、個人的には、立憲政治を信奉する近代的な生物科学者であった」とし、昭和天皇は平和主義者であったと述べている。その上で、原爆での犠牲を出したことへの批判があることに触れた上で、「日本全土が沖縄やドイツのような住民を巻き込んでの戦場になることを免れ、敗戦後のいちやはい復興を可能にしたという点で、国民がこの天皇の決断に負うものは大きい。」として、御前会議におけるポツダム宣言受諾を評価している。十五年戦争を止められなかった原因について、昭和天皇の性格、大日本帝国の栄光の使命感に触れた上で、「最大の問題は、天皇自身が軍部急進派や皇道主義者たちの思想に反対し、明治憲法の立憲主義的解釈と運用に忠実たろうとしたことにあった。」とし、昭和天皇を立憲主義者であると評価している。 また、沖縄に訪問をしなかったことについて、「昭和六十二年(一九八七)には、国体が開催された沖縄に始めて足をふみいれることになっていた。それはまた、長い和解の道の終点になるはずでもあった。しかし、それは病気のため果されなかった」と述べている。 この朝日新聞の論壇に対して、「(ゼミのOB生の一人が、)「先生は天皇制に対して寛容なのですね」と問いかけたところ、「そうか」と言って苦い顔をしてそれ以上話されなかったという。 上記以外にも、1989年2月に行われたオーストラリアのモナシュ大学日本研究科特別講演において、侵略戦争に対する昭和天皇の戦争責任について、「彼(=昭和天皇)が日本の傀儡である満州帝国の樹立や上海事変以降の中国への侵略自体に対して、反対や批判の念をもっていたという記録はありません。」とした上で、「一方で中国への侵略を拡大しながら、他方で英米と協調したいというのは、両立するはずがないというのが今日の常識でしょうが、半世紀前には、一方で第三世界を侵略し植民地化しながら平和を唱えることは、日本のみならずヨーロッパにおいても、さほど矛盾とは考えられませんでした。」とし、「パールハーバーへの奇襲に始まる太平洋戦争の開戦以後、天皇が戦勝に喜んだという記録を見て、天皇の平和主義はうわべだけのものであったとする人たちもいます。しかし、同時に日本の多くのリベラリスト、近代主義者たちも、開戦と同時に一変してナショナリストとなり、戦勝や敗北に一喜一憂しました。こういう現象は、いわば、世界どこでも共通しています。」として、日本の近代主義者、リベラリストが同じ思考形態であったことや、ヨーロッパでも第三世界の侵略、植民地化を行っており、昭和天皇一人が責められる問題ではないとの見解を示している。 また、「天皇の戦争責任問題の核心にあるのは、天皇が、戦時中の日本の侵略戦争にどれだけ現実にかかわったかという意味での政治的な責任の問題です。」との見解を示した上で、昭和天皇の戦争責任を追及する立場を取る見解を、「戦中派や一部の左翼評論家は、戦後の側近の記録に現れた天皇のことば尻をとらえて、天皇は、このように戦争に賛成し、指導したという結論を引き出すのに躍起になっていますが、それは木を見て森を見ない判断だと思います。」として、否定的な見解を示している。 第125代天皇明仁について 明仁天皇については、「戦後、中学生になった皇太子(当時)は、六三制の学校で学び、また、バイニング夫人の個人的な薫陶を受けられた。スケートやテニスを好む明るい青年として成長され、テニス・コートで育まれた愛情を貫き通して、皇太子としてはじめて平民との結婚にこぎつけられた。そこには新憲法の下で国民に親しまれる新しい皇室をつくろうという当時の皇室をめぐる人びととの配慮と、それに応えようとした皇太子の意志を、読み取ることができる。」と好意的に解釈している。 象徴天皇制について 象徴天皇制について、第125代天皇明仁の即位の礼が行われた1990年11月12日の北海道新聞において「世襲の国民統合の象徴という日本の象徴天皇制は、世界でもユニークな存在である。」とし、明仁天皇が天皇の地位を引き継ぐ際に国民とともに憲法を守るという意思表示をしたことに触れた上で、「象徴天皇制をどのようなものとして作り上げてゆくかは、まさに「主権の存する国民」の任務である。そして、日本が世界の大国に伍するようになった今、象徴天皇を通じて、日本国民がどのような原則で統合されているかを世界に示すことは、ますます大きな意味をもつに違いない」として、日本は世界の大国であるとの認識を踏まえた上で、象徴天皇制を維持することを前提に、国民統合としての天皇のあり方を対外的に示すべきとの見解を示している。 高畠に対する批判 以上のような見解について、「高畠通敏は、晩節に天皇制下での『出世』を計った」との批判がある。また、明仁天皇と同年の1933年生まれであることから高畠の天皇個人に対する見解はその都度変化する面もあった。著書「生活者の政治学」において天皇をイタリアやドイツの大統領と同列の元首として扱っている件に対しても批判がある。
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