天皇免訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 02:44 UTC 版)
キーナンは、ダグラス・マッカーサーの意向を受けて、昭和天皇免訴の立場を取った。裁判の進行に連れて、天皇の不起訴について疑問視する声が各方面から聞こえてくると、開廷中にも関わらず一時帰国し、1946年6月18日、ワシントンD.C.で記者会見し、天皇を戦犯として裁判にかけることはないと表明した。 1947年12月31日に、「天皇の平和に対する希望に反した行動を、木戸幸一内大臣がとったことがありますか?」というローガン弁護人の質問に対し、東條英機が「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、彼是するという事は有り得ぬ事であります。いわんや日本の高官においてをや」と返答した。この答弁からウィリアム・ウェブ裁判長は回答の持つ重要性を指摘、ソビエト連邦代表検察官であるセルゲイ・A・ゴルンスキー(ロシア語版)も、天皇の訴追についてキーナンに進言した。キーナンは早急に田中隆吉元大日本帝国陸軍少将を通して、松平康昌式部長官→木戸→東條のルートで、極秘に前述の証言を否定するよう東條説得工作を行った。この工作は功を奏し、1948年1月6日の法廷で東條は、キーナンの「その戦争を行わなければならない、行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか?」という質問に対し、太平洋戦争開始の詔勅の中にある「豈朕カ志ナラムヤ(誠にやむを得ざるものであり、朕の意思にあらず)」という言葉を例に、天皇は東條の進言で開戦に「しぶしぶご同意になった」と再証言した。この証言により、天皇の戦争責任に関する問題は決着が付けられ、再び論議が法廷で交わされることはなかった。
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