天皇元服と太政大臣とは? わかりやすく解説

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天皇元服と太政大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:03 UTC 版)

太政大臣」の記事における「天皇元服と太政大臣」の解説

天皇在位中に元服の儀式を執り行ったのは、貞観6年864年1月清和天皇元服最初である。これ以前には、在位中に元服を行う必要があるほどの幼年での天皇即位はありえなかったので、当然のことではある。このときに創案された一連の儀式は、その後天皇元服規範として定着してゆくことになる。 清和天皇元服に際して加冠の役を務めたのは、ときの太政大臣藤原良房であった。これに続く天皇元服である陽成天皇元服では、やはり太政大臣藤原基経加冠務めている。3番目の例である朱雀天皇元服では、太政大臣藤原忠平加冠務めた。 これらの例は「一人師範」という太政大臣職掌からすれば当然のことと言えるまた、摂政という任務からも説明することができる。いずれにしても天皇元服に際しては、太政大臣加冠務めることが先例として定着した。しかも、摂政であってかつ太政大臣である者が務めなければならない、と観念されていた。基経と忠平は実際に摂政太政大臣立場にあったし、良房も、清和天皇践祚同時に摂政任じられものとい認識後世定着していたからである。 この観念定着する一方で太政大臣名誉職化が進行すると、逆に摂政の職にある者が、天皇元服加冠務めるためにわざわざ太政大臣就任する、という一見奇妙な現象常態化した。摂政太政大臣分離先駆けである藤原兼家も、永祚2年990年1月一条天皇元服備えて永祚元年989年12月太政大臣就任し翌年5月には早くも辞任している。天皇元服加冠摂政太政大臣務め加冠の任を終えると短期間太政大臣辞任する慣行は、その後慶応3年1867年12月王政復古により人臣摂政廃止されるまで続いた唯一の例外は、寛仁2年1018年1月後一条天皇元服加冠務めた藤原道長である。このとき道長は、すでに子息頼通摂政譲っており、前摂政立場にあったが、寛仁元年1017年12月太政大臣となり、加冠務めた。このケースでは、現職摂政であることより天皇の外祖父であることが優先された。 江戸時代には太政大臣への任命事前に江戸幕府許可を必要とする慣例成立して摂関家すら任じられる事ことが稀となり、清華家任命希望することすら不相応認識されるようになった清華家から唯一任官申請出され西園寺致季事例朝廷において直ち却下されている)。こうした事情からか本来は東宮傅が行うべき東宮儲宮)の加冠太政大臣が行う、すなわち摂関もしくはその前任者東宮加冠理由として太政大臣任命される事例発生している(ただし、幕末には再び東宮傅による加冠復活している)。

※この「天皇元服と太政大臣」の解説は、「太政大臣」の解説の一部です。
「天皇元服と太政大臣」を含む「太政大臣」の記事については、「太政大臣」の概要を参照ください。

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