古典的用法とは? わかりやすく解説

古典的用法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:34 UTC 版)

中国」の記事における「古典的用法」の解説

本来は特定の国家民族を指す言葉ではない。西周時代には広く見積もって中原、または洛陽周辺指していた。 ベトナムでは阮朝自国中国(チォンコック)と呼び日本でも自国に対して葦原中国あしはらのなかつくに)あるいは中国なかつくに)という美称用いている。 日本において朝貢する異族対し自国中国称した表記例『続日本紀』文武天皇3年699年7月19日条における「徳之島人が中国渡来するのは、この時から始まった」の一文である。 一方黄河流域黄河文明営んでいた漢民族前身となった都市国家の民の国際社会では、「中国」という語は、王や覇者中心とした秩序に基づくものであったその後中華思想に基づく「文化的優越性持った世界中心」という意味を帯び秦始皇帝のこの地域諸民族統一発する中国歴代王朝の政治的軍事的な境界設定する中で、徐々に形成されていった漢民族意識アイデンティティ境界付け自称として拡張されていった。 「中原」とは、黄河文明発祥地である黄河中下流域広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされる。 「秦始皇中国防衛するため長城建てた」と文書記載されている。漢書溝恤志卷29では「中國川原以百數」(いにしえより中国には何百もの山と原があり)、前漢昭帝時代書かれとされる塩鉄論』では、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称している。 また、武帝新規に征服した領域は「中国」と対置する領域として「辺境」と各所記されてもいる。しかし、武帝新たに征服した領土を含む領域を「中国」と表現している箇所もある。武帝支配した領域以外の地域を「外国」と表記し、「外国」が「中国」と対置されている箇所があるからである。このように、『塩鉄論論争当時は、「中国」の概念は、武帝征服領土を含む場合含まない場合見られ辺境郡を中国に含むかどうか論者による認識のずれがあったようである。 周王朝時代領域は「諸夏」、漢高祖平定領域は「九州」、と各々使い分けて記載されている。この時代には、既に「中国」の領域が「中原」よりも広い地域拡大し自民族の伝統的領域認識されている一方王朝支配領域全てが「中国」と認識されているわけではない用例があることを窺い知ることができる。 『塩鉄論』には一箇所だけ「漢國」の表記があり、概ね「漢」に支配される領土は「中国」と同義とみられる唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになっていた。例えば「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥吐蕃回鶻雲南是也」とある。韓愈論仏骨表では「仏というものは、後漢代中国伝わったものであり、その前中国にはまだ仏は居なかったのです」と記している。 同時に中国」は地理的な領域名だけではなく王朝現時点支配している領土意味するようにもなっていた 「中国」の領域認識支配領域拡大縮小連動した通例では清朝末期以前は、「中国」は通史意味合い持たないとされているが、通史的な用例まったくないわけではない例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛漢武帝唐太宗」(いにしえより中国漢武帝唐太宗如く強く盛んであった)という記載がある。 中華ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し漢民族の間で「中国」と同様の自称として用いられた。 「中心の国に住む優れた文化担い手」という意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族アイデンティティ」と「華夏文化優越性」という要素共存していた。 中華思想においては天の意志代行する皇帝が、その徳をもって統治し、もし徳を失えば新たな家系替わる。「中国」「中華に対してその四方に居住する周辺民族は「夷狄」として対置される。 11世紀以降の宋から明にかけて、宋明理学大盛り上がりし、再び華夷秩序強調されるようになった。また宋や明では異国文化珍重し外国人宮廷登用されることも珍しくなかった中国の皇帝西アジアの「諸王の王」に相当し中国歴代王朝は、自らが人類唯一の皇帝であり、それ以外中華世界における辺境に過ぎないという態度取った対等な国が存在しないのだから、対等な関係の外交存在せず周辺民族との関係は全て朝貢という形式となる。逆に夷狄の王が中原征服して中国同化し、皇帝となることも可能であった五胡十六国時代諸国南北朝時代北朝五代十国時代突厥沙陀部軍閥中央権力の要を成した後半四代がこの典型である。しかし、遼・金・元・清の4王朝は、漢民族支配して中華帝国系統属す王朝作ったが、自民族の統治制度文化保持し続け版図一部構成するに過ぎない漢民族地域に対しては、征服王朝として振る舞った漢民族直面したこのような現実に対して宋学では華夷秩序強調されるようになった。それに基づく、清の法律にも「外国人に対して自分中国と呼ぶ必要がある」と規定したことがある日本では江戸時代大陸国家を「中国」と呼んだ例が存在する

※この「古典的用法」の解説は、「中国」の解説の一部です。
「古典的用法」を含む「中国」の記事については、「中国」の概要を参照ください。

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