加害者・死刑囚O
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 09:29 UTC 版)
「ピアノ騒音殺人事件」の記事における「加害者・死刑囚O」の解説
加害者である男O・M(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャルを用い「O」と表記)は1928年(昭和3年)6月4日生まれ(事件当時46歳)で、東京府東京市亀戸町三丁目54番地(現:東京都江東区亀戸)で書店経営者の次男として出生した。 子供のころは明るく活発な性格で学業成績も良かったが、1938年(昭和13年)ごろに近所の吃音症の子供と遊びそのまねをしているうちに自らも吃音症を発症、以来無口で内向的になった。旧制錦城中学校(旧制中学校 / 千代田区神田)へ進学したが、中学1年の時には国語の授業の際に皆の前で教科書を読まされ、途中でひらがなが読めず放棄するという屈辱的な体験をした。それ以降、Oは強い劣等感を抱いて勉学への意欲を失ったことで、学業成績もとても低下し、次第に無口で暗い性格に変わっていった。1945年(昭和20年)3月に旧制錦城中学校を卒業後、終戦まで両親の疎開先だった山梨県北都留郡上野原町(現:上野原市)の軍需工場に勤務していたが、親元を離れて生計を立てるようになってからは肉親とほとんど音信不通の生活を続けていた。 1947年(昭和22年)5月には日本国有鉄道(国鉄 / 現在の東日本旅客鉄道〈JR東日本〉)中央本線・国立駅職員となったが、競輪に凝って切符の売上金を使い込むなどした。1950年9月には分納金39,000円を持ち逃げし、向島の娼婦のところで約1か月間でその金を遣い果たすと、逃走中の1950年10月には生活費に窮して駅の定期券売り場で現金2,000円をひったくろうとして警察に逮捕され、台東簡易裁判所で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。このため1950年(昭和25年)には退職を余儀なくされ、それ以降は東京都内・神奈川県内の会社など職場を転々と変えた。この間には一時山梨の実家に戻って農作業・山仕事を手伝ったり、1951年(昭和26年)からは旋盤工場で勤務したりしたが、やがて就労意欲を失い、1953年(昭和28年)ごろには自宅でぶらぶらしていたことを兄にとがめられたことで「家にいたらえらいことになる」と家を出、新橋界隈で約1年間にわたりホームレス生活を送った。その間、Oは東京都内で勤務していた1953年(昭和28年)ごろから神経性の頭痛持ちとなったほか、1959年(昭和34年)5月には最初の結婚をして他家の婿養子となったが、翌1960年(昭和35年)4月に妻からの申し立てにより離婚調停が行われ、同年11月にOが30,000円を受け取ることで離婚調停が成立した。また1959年 - 1963年(昭和38年)には東京都八王子市並木町のアパートに居住しており、1963年ごろには日野自動車に2交替制で勤務して早朝に就寝することが多かったが、この時には隣人一家から「ステレオの音がうるさい」と苦情を受けてから物音に対し病的に敏感になっており、1965年(昭和40年)ごろには神経過敏になって早朝さえずるスズメの鳴き声さえうるさく感じるようになっていた。 親戚が経営していた神奈川県内の鉄工所に勤務していた1965年4月に知人の紹介を受けて再婚したが、妻との夫婦仲は険悪で、結婚当初から些細なことで殴る・小突くなどドメスティック・バイオレンス(DV)を加えるなどしていたため、妻は何度も離婚を考えていた。1967年(昭和42年)ごろからは夫婦で八王子市内の社員寮に住み込み、Oは会社のボイラーマン・妻は寮の管理人としてそれぞれ勤務していたが、Oは夜間の寮生の話し声・麻雀の音等を気に掛けて何度も大声で注意し、最終的に多数の寮生と激しい口論をしたことがきっかけで翌1968年(昭和43年)に退職した。1969年(昭和44年)5月 - 1970年7月には平塚市内の小松電子金属(現:SUMCO TECHXIV)に勤務していたが、当時は内向的で口数も少なく目立たない存在だった。また事件現場となった神奈川県営横内団地34棟4階には、1970年(昭和45年)4月(406号室)に入居している。 Oは1973年7月、工員として勤務していた平塚市内の車体部品製造会社を「仕事に飽きた」と退社。以降は無職となって失業保険給付金などで暮らしていたが、事件直前の1974年7月ごろには手持ちの生活資金にも窮し始めており、事件発生まで月7,000円の家賃を約3か月間滞納していた。
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