創作に対する姿勢や嗜好
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:06 UTC 版)
「藤子・F・不二雄」の記事における「創作に対する姿勢や嗜好」の解説
愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペン。整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを嫌った。作品を単行本化する際、加筆修正、削除を行い、より完成度を高めるようにしている。 第二次世界大戦中に小学校時代を過ごした世代であり、第二次大戦終結(1945年8月15日)当時は国民学校(現・小学校)6年生であった。したがって、兵器、軍事、クーデター、革命などに関する作品も多くある。兵器に関しては子供が憧れる格好いいものと描いている描写(スネ夫のセリフなど)があるが、戦争自体への考えは世代に関係なく一貫して虚しいもの、恐るべきもの、愚かしい行為として描いている。また、ドラえもん初期には、第二次世界大戦に関するエピソードがいくつか見受けられる(疎開先での児童生活の辛さを描いた『白ゆりのような女の子』、上野動物園での動物の殺処分について触れた『ぞうとおじさん』など)。1979年発表『T・Pぼん「戦場の美少女」』では主人公たちが特攻隊員に歴史干渉をしている。1980年発表の短編『超兵器ガ壱号』では、第二次世界大戦に日本が勝利する世界を描いている。 『ドラえもん』など、SF色(特にタイムトラベルを描いた内容)の強い作品の多さなどからわかる通り、SFに対しての関心も強かった。SF短編などには、名作SFからの影響や引用が散見できる。『スター・ウォーズ』が公開され、大ブームになった時期には、『ドラえもん』の各所に『スター・ウォーズ』にちなんだネタを数多く登場させた(パロディとして描いた「天井うらの宇宙戦争」(姫はアーレ・オッカナ、ロボットはR3-D3、敵はアカンベーダー)の話のほかにも、リザーブマシンで取った映画の席が『スター・ジョーズ』であるなど。SF短編では『ある日……』と『裏町裏通り名画館』に『スター・ウォーズ』のパロディ劇中劇がある)。 大ヒットした映画『南極物語』を本来南極に住んでいた野生動物の立場から自作の中で暗に非難し(『裏町裏通り名画館』)、『大長編ドラえもん』でも環境保護を早期から唱えていた(『のび太とアニマル惑星』『のび太と雲の王国』)。 子供による、現実と自作の作品世界が混同した無邪気な質問に対しては、夢を壊さないような答えを返している。以下に例を列挙する。 武田鉄矢がまだ幼い娘を連れて藤本に会いにいったとき、娘が「ドラえもんはどこにいるの?」と尋ねた。すると藤本は「ドラえもんはね、今テレビ局にいるんだよ」と答えた。 『ドラえもん』人気が高かったベトナムを訪れた際、現地の子供が「四次元ポケットは(藤本先生は)持っていないのですか?」という質問をした。それに対し、藤本は「ドラえもんが着けているもののほかに、予備(スペアポケット)があるんだけど、この2つしかないから、僕は持っていないんだよ」と答えた。 作中に登場する女の子には強いこだわりがあり、女の子が登場しただけで単行本に収録する際、加筆修正を何重にも行うこともある(『21エモン』でのルナ登場シーンや、『エスパー魔美』のヌードシーンなど)。特に『ドラえもん』のアニメ化の際、しずかについての作画には多く注文した。 自作のアニメーション化の制作には、細かいチェックや要望などは特に行わなかったとされているが、代表作の『ドラえもん』については、さまざまなエピソードが残されている。帯番組時代は作画の不安定さに苦言を呈し、また原作のストック不足から製作されたアニメオリジナルエピソードの質の悪さに激怒し、健康状態の問題から新作の提供が困難になった90年代までアニメオリジナルエピソードの製作を認めなかった。1985年には自ら出向いてアニメ用デザインの製作に加わった。元シンエイ動画社長の楠部三吉郎は、映画『ドラえもん』公開後のミーティングでも決まって「面白かったですね」としか言わなかったが、シンエイ動画版『ドラえもん』が始まって少し経ったころに「私のキャラクターでお願いします」と言われたことと、『ドラえもん のび太の大魔境』完成後に「作品の出来はいいと思う」が「私の世界を理解していただいていない。監督を変えてもらえないか」と言われたことの2度(いずれも楠部との差し向かい)、アニメ版の内容について「叱られた」と記している。武田鉄矢の歌にもこだわりを持っていたらしく、映画大長編のエンディングテーマをずっと担当していた武田の降板を製作側から持ちかけられたときには強く拒絶したことが『ドラえもん大全集』にて武田本人により明かされている。最初の映画『ドラえもん のび太の恐竜』に客が入るのか不安で、公開前日に映画館の向かいのホテルに宿を取ったと大山のぶ代は記している。 晩年、小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』などに作品が掲載される際には、「マンガの王様」というクレジットがあった。 初の専属アシスタントとして、『まいっちんぐマチコ先生』で知られるえびはら武司がいる。むぎわらしんたろう(萩原伸一)もアシスタントとして晩年の藤本を支え、一緒に劇を見たり途中でそばを食べるなどとかなり親密な関係だった。また、むぎわらが描いた漫画に細かい部分まで指導を行ったり、『ドラえもん』単行本の表紙を任せるなど、後進としても目をかけていた。 『ドラえもん』のジャイ子(ジャイアンの妹)があだ名のままで本名が明かされなかったのは、ジャイ子の本名を明かすと同じ名前の女の子が学校でいじめられるかもしれないと配慮したためである。これは藤子の死後、2006年2月19日放送のテレビ朝日系『〜ドラえもん誕生物語 藤子・F・不二雄からの手紙〜』にて関係者が告白したことにより初めて明らかになったもので、それまでは「藤子は『(ジャイ子の本名は)そのうち漫画の中で書きますよ』と答えていたが、結局書かれることがなかっただけ」と説明されていた。藤子は生前、自分の子供達に「友達がジャイ子に似ているからと言ってからかってはいけないよ」と注意していたという[要出典]。 スネ夫の弟スネツグは連載初期には登場させていたものの、次第に藤子がスネツグの存在を忘れてしまい、スネ夫は一人っ子と設定された。苦肉の策として、スネ夫に弟はいるが養子に出たというエピソードが描かれている。
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