創作に描かれる吉村貫一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 14:30 UTC 版)
「吉村貫一郎」の記事における「創作に描かれる吉村貫一郎」の解説
一般に流通する吉村像は、上記西村の記述をヒントにした子母澤寛の『新選組物語』「隊士絶命記」による創作が元になっている。子母澤の描く吉村の姿は以下の通りである。 三十七、八歳。痩せ形で背が高く、左の目の下に小さな傷跡があった。おとなしい性格で学問があり、剣術も使えた。特に書をよくした。盛岡藩出身の微録の扶持取りで、漆掻などをして妻子五人を養っていたが、どうしても食えないので妻と相談の上、文久2年に脱藩し、単身で大坂に出た。その後も仕送りは続けていた。翌年に新選組が京大坂で隊士の募集を行ったのを聞きつけて、応募した 。見廻組並に選ばれた時、土方より三十俵二人扶持を頂き、うれし泣きをした。新選組が伏見奉行所に引き移る際に貰った百両を妻子に届けた。鳥羽・伏見の戦いの後、味方にはぐれ、新選組が大坂を離れている事を知った吉村は網島の盛岡藩仮屋敷に身を投じ、留守居役の大野次郎右衛門を前にして、勤王のために奉公したいと言うが、結局は妻子を養ってくれる俸禄が欲しいだけであり、妻子に忠義を尽すのだと吐露する。大野は君は武士の魂をもっていない、南部武士にこのような人がいるのは、わが藩末代までの恥だと言って、外に出ればすぐ縄目が掛かるからと、切腹するように仕向けたので、吉村は屋敷内で腹を切った。その部屋の床の間には、小刀と二分金十枚ばかりの包みが置いてあり、傍らの壁には「此弍品拙者家へ……」と記してあった、という。 後に水木しげる・浅田次郎は上記子母澤の創作を下敷きにして吉村を主役とした作品を発表しており、水木は漫画『幕末の親父』、浅田は歴史小説『壬生義士伝』を執筆した。 ただし、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であり、実際の吉村は二百石という高禄の侍の倅だった。年齢も大きく異なっており、脱藩年も合わず、妻子も確認できない。
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