連載初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 08:02 UTC 版)
ある時「連載が予定の10回で終了したら、どげんするとです?」と聞いた所、担当編集の堀内丸恵(彼も小林の初期の漫画に時々登場する)はバツが悪そうに「そりゃあ…同じくらい面白い漫画、また作るしかないんじゃないかな」と答えた。世間知らずの小林は、漫画家が終身雇用制だと思っていたのだが、「連載が打ち切られたら失業」という事実を知った親戚が連日かわるがわる押しかけ「漫画家なんて馬鹿なことやめっとよ!」と大合唱されることとなり、背水の陣でムキになって熱筆。結局『一直線』は大ヒットし、流行漫画家となった。難のあった画力も週刊連載開始から2ヶ月ほどで、当時のギャグ漫画家としては標準レベルとなった。 デビュー当時はカラーページを描く際に使用する、耐水インクの存在を知らなかった。『一直線』連載当時、カラーページを描く時はまず墨汁でペン入れをし、その後ペン入れした線が滲まないよう、神経を研ぎ澄まして絵の具で着色していた(小林曰く「前衛的な手法」)。そのためカラーページを描くのを嫌がり、同時期他の連載作家がカラーページで掲載していたのを見て「どうやってインクをにじませずに描いているのだろう?」としきりに思っていた。スクリーントーンも、他の作家がトーンを貼る前の、指定を記したものしか見たことが無かったので、指定だけ書けば印刷されると思っており、ある時編集者から「先生!ちゃんと貼って下さいよ」と泣きつかれたことで、初めて知ったと言う。 当時の小林は、髪がセミロングサングラスの入った大き目の眼鏡をかけ、キャッチフレーズ?は「漫画界のさだまさし」。しかしギャグ漫画の死線の中、ただでさえやせていた頬がもっとやせ、井上ひさしみたいと言われたのは、たまらなかったと語っている。
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