修道院と教会
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ボニファティウスとヴィクベルトのベネディクト会修道院と、これを起源として時代と共に成立していった聖ペトリ教会は、1803年5月28日に廃止されるまでこの街に存在していた。 1145年に貧民施療院が開設された。これを起源として、聖カタリナに献堂された教会を有する聖アウグスチノ女子修道会修道院が設立された。この修道院は16世紀に廃止された。その跡地に1713年から1719年にウルスラ会修道院の建物が建設された。この建物は現在も学校として利用されている。また、聖カタリナ教会も現存している。 1232年にコンラート・フォン・テューリンゲンにより街が完全に破壊された後、フランシスコ会は修道院建設許可を申請し、1237年に認可された。ただし、土地不足のため市壁に接する場所での建設許可であった。この修道院は1244年に完成した。教皇レオ10世の時代、1517年に貧民の抗争から起こったフランシスコ会の分裂では、この修道院はコンベンツァル派であることを公言していた。やがてこの街でルター派の宗教改革が多くの支持者を集め、1548年にこの修道院は閉鎖に追い込まれた。1552年にヘッセン方伯軍がこの街を占拠し、宗教改革がなされると、修道士らはこの街から去らねばならなかった。アウクスブルクの宗教和議の後 1555年に方伯の占領が解かれ、この街はカトリック側に残された。1562年1月14日、200人の騎士と300人の歩兵を擁したマインツの聖堂参事会はプロテスタント市民の抵抗運動を鎮圧した。反宗教改革に伴い、1615年にイエズス会が、1619年には再びコンベンツァル会が修道院を設立した。世俗化後、1804年に修道院は廃止が決定され、1811年に最終的に閉鎖された。修道院の所領は教会をも含めてすべてフリッツラー市に譲渡された。1330年頃に建設された大規模なゴシック建築の修道院教会は、1817年と1824年の2回に分けてプロテスタント教会の所有となった。プロテスタント教会はこの数年前に組織されたばかりであった。これ以後、この教会はプロテスタントの市教会となっている。また、修道院の残りの建造物は現在、近代的な病院として利用されている。 ドイツ騎士団は、1219年にはすでにフリッツラーに所領を有していた。1231年にはさらにハインリヒ・ラスペの寄贈により、現在のオーバーメルリヒ区に広大な土地を獲得した。その3年後、アーナベルク女子修道院がオーバーメルリヒの所領の永代借地権をドイツ騎士団に移譲した。騎士団は1234年にオーバーメルリヒに、テューリンゲン管区の下位に属す騎士領小管区を設けた。1255年からは、テューリンゲン管区から分離され、独立したヘッセン管区を形成する9つの小管区の1つとなった。この小管区は1304年にフリッツラーに本部を移した。この頃に建造された小管区長庁舎は1717年に取り壊された。その跡地にヘッセン管区長シェーンボルン伯ダーミアン・フーゴーが建造した建物は現存しており、私有物にもかかわらず「ドイツ騎士団の館」と呼ばれている。 旧市街のやや東寄りにある、1260年に初めて記録されているフラウミュンスター教会は、短命に終わった女子修道院の一部であったとされていた。14世紀のいくつかの文献にそうした記載が見られる。しかし、この記述は証明されておらず、むしろ疑問視されている。この教会周辺ではしばしば戦闘が行われていた。1527年のヘッセン方伯領の宗教改革後は、マインツ選帝侯領のフリッツラーの市域内にありながら、ヘッセン側の村オーバーメルリヒに属していた。 メスのウルスラ会は、16世紀に廃止されたアウグスチノ女子修道院の跡地に1711年に修道院を建設した。また、1713年に女学校の礎石が据えられた。修道院の建物は1719年に完成し、運用開始された。旧カタリナ教会は1726年に修道院教会となった。ビスマルクの文化闘争の時代、1877年から1887年まで修道女は追放され、修道院の建物は地方行政の役場として利用されたが、1888年にプロイセンから国の認可が得られた。しかしナチス時代には再び困難に直面した。基礎課程学校は1934年、リツェーウム(女子高等中学校)は1940年に閉鎖された。さらに1941年に修道院が接収され、修道女はゲシュタポによって追放された。1945年11月の返還後、修道院と学校は隆盛したが、2003年に後継者不足のために閉鎖された。現在、ウルスラ女子修道会学校は、ギムナジウムの上級3学年を含む共同型総合学校となっている。 1989年、オーストリアのゲーラ修道院によってフリッツラーにプレモントレ会修道院の分院が設立された。1992年からはザンクト・ヘルマン・ヨーゼフ修道院として存続していたが、2010年7月1日に職権濫用スキャンダルによって解体された.。 少なくとも6つの宗教建築が時代と共にこの街から姿を消した。その中には以下のものが含まれる。 イエズス会は、1615年に聖ヨハネ礼拝堂近くの館に拠点を置いたが、それ以前の1578年に聖ニコラウス教会を手に入れた。この教会は1266年に初めて記録され1493年から市の所有となっていた古い教会で、現在の郵便局の場所にあった。元々は市で最も古い商人のギルドハウスであった。1629年9月にヘッセン方伯軍によってフリッツラーが占領され、イエズス会が追放された後、この教会は次第に崩壊していった。最後まで遺っていた教会塔には市の時計が取り付けられていたが、1755年に取り壊された。 聖堂広場の北側、現在の牧師館の場所に聖ヨハネス礼拝堂があった。これはおそらく領主館の付属建造物であったと推測される。この礼拝堂は、1463年に聖堂の祭壇寄進者に譲渡され、七年戦争の間に宗教建築としての機能を喪失した。その後は倉庫として利用され、19世紀には小さな教会組織がこれを利用したものの、ナポレオン時代には馬小屋として賃貸しされた後、1848年に老朽化のために解体された。 現在の税務署の場所、市壁の前に聖ゲオルク教会があった。この教会は最初の市立病院=ハンセン病患者療養所を併設していた。病院は1308年にノイシュタット前の水車用水路脇に移転した。そこには現在、施療礼拝堂がある。 シルダー門の前に、16世紀に記録が遺るマリア礼拝堂があったが、現存していない。 シナゴーグ1823年から1890年代末まではニコラウス通りに「旧シナゴーグ」があった。 1897年から1939年までノイシュテッター通りに「新シナゴーグ」があった。
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