ボンの破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 13:50 UTC 版)
「ボン攻囲戦 (1689年)」の記事における「ボンの破壊」の解説
次の行動については意見が一致せず、主力はツォンスまで進んでいた。そして各砦の攻略後、ボンをライン川右岸から砲撃することが決まる。運ばれてきた大砲を守るため、ボイエル砦の近くに壁が築かれた。7月、同盟軍主力はツォンスを発ち、ケルン近郊で停止する。特に騎兵の働きで、ボンは孤立した。 アスフェルト男爵アレクスィ・ビダル(フランス語版)率いるフランス軍は、攻囲戦に備えていた。およそ4,000名の守備隊は、フランス軍の中でも最精鋭に属していた。その他、多くの敗残兵が合流している。しかし新しく来た者のほとんどは騎兵であり、多数の馬への給養はただでさえ限られた備蓄をさらに圧迫する。守備隊は防衛施設をさらに補強した。弾薬と食料の備蓄はできる限り、ある程度安全な各所へ運ばれる。 町の包囲を狭めるため、本営はローデンキルヒェン(英語版)の一帯に移された。その間に重砲140門と臼砲30門がボイエル砦の付近に配置される。7月24日、選帝侯フリードリヒ3世は砲撃の開始を命じた。その効果は甚大であった。町の各所で火災が発生し、急速に広がる。多数の住居、選帝侯の宮殿(英語版)、数々の修道院と教会が最初の24時間で破壊された。ほとんど無事だったのは、ボン大聖堂(英語版)のみである。初弾は野戦病院に命中し、多数の負傷者を殺傷した。 それに続く夜、砲撃は消火活動を妨げるべく何より延焼中の一帯に加えられた。ライン川に面する市壁は程なく完全に破壊される。フランス軍部隊は砲撃を避けるため、ボンの市内から外堡への撤退を余儀なくされた。数多くの市民も、市外へ逃れる。市域への砲撃は選帝侯の命令で中止され、その代わりに外堡が標的となった。ブランデンブルクの騎兵隊はフランス軍の徴発部隊による、近郊の各村における食糧徴収を阻止することができなかった。市内の司令官は降伏の意志を見せなかったものの、7月29日にはブランデンブルク選帝侯の命令で砲撃が停止された。8月6日、砲撃が再開されると大聖堂の尖塔に砲弾が命中し、火災が発生した。この時、それまでの鐘が失われている。
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