修道院の俗化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/21 20:33 UTC 版)
宗教的な熱情が低下するにつれて、修道院の中ではさまざまな争いや不和が生じるようになった。1364年、バルトロメオ修道院長は、法皇の命によって「手に負えない修道士」の一部を退去させている。 教皇ウルバヌス6世(在位:1378年 - 1389年)は、修道士による修道院長選挙の権利を奪い、教皇庁のメンバーを修道院長の職に任命して行政にあたらせるとともに収入を与えることとした。1455年、教皇カリストゥス3世は、修道院長の職を枢機卿の聖職禄とした。その最初はスペインのフアン・デ・トルケマダ (Juan de Torquemada (cardinal)) であり、二人目はロドリーゴ・ボルジア(のちの教皇アレクサンデル6世)であった。ロドリーゴは かつて教皇の夏の離宮であった Castrum Sublacence を改築し、修道院長職の聖職禄を受ける者(commendatory abbot)の住居とした。これらの修道院長の多くは、修道士たちの宗教生活に意を払うことは少なかった。例えば、1506年から修道院長の聖職禄を受けたリエーティ司教ポンペオ・コロンナ (Pompeo Colonna) は、修道院の財産を浪費し、ふさわしくない臣下に収入を与えた。修道士共同体からの苦情を受け、1510年にユリウス2世は調整を行い、修道院の財産を回復した。修道士たちは精神的な目的のためにスビアーコ修道院とファルファ修道院 (Farfa Abbey) (現在のリエーティ県ファーラ・イン・サビーナ)とを統合したが、これは長続きしなかった。修道院長職はその後も枢機卿の聖職禄として推移した。また、同じベネディクト会の中でスビアーコ、ファルファ、モンテ・カッシーノの各修道院間の争いがあり、またイタリア人修道士とドイツ人修道士の対立も絶えなかった。
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