以前に交代寄合であった家の代表例
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「交代寄合」の記事における「以前に交代寄合であった家の代表例」の解説
家領地備考松前氏 蝦夷嶋主 無高 享保4年(1719年)1万石格 柳間詰 諸侯 喜連川氏 下野喜連川御所4,500石→5,000石(10万石格) 御所号 正徳4年(1714年)ごろ高家、享保3年(1718年)ごろ諸侯扱い。維新後は子爵。 久松松平家 下総多古8,000石 徳川家康の異父弟松平康俊を祖とする。数代後の正徳3年(1713年)1万2,000石に加増となり諸侯に列する 石河家(石川家) 美濃加々島5,020石 石川貞政が家祖。万治2年(1659年)、願って寄合に。 一色家 武蔵幸手5,160石→下総→三河3,500石 幸手一色氏の一色義直の子孫。二代後の直房が病弱で参勤できず寄合に。三河国内3,500石。 打越家 常陸新宮3,000石→旧領出羽矢島3,000石 出自は由利十二頭。打越光隆の子の光久に嗣子なく断絶。光久弟の光種が取り立てられ、旗本500石として存続した。 大嶋家 美濃3,250→2,000石 美濃関藩分家。大島光俊の孫の代で分知減高に付き、伺いの上交代御免となり、旗本寄合。摂津・美濃国内2,000石。 織田家 大和宇陀内3,000石→2,700石 宇陀松山藩(のち柏原藩)の分家。織田長政の子の信明が弟の信清に分知し2700石。一時小普請となるが、元禄14年(1701年)に表高家となった。 田中(京極)家 1,000石 京極高知の三男の田中満吉より。3代高久の代に京極姓に復し旗本。上野国内1,000石 新庄家 常陸鹿島郡7,000石 常陸麻生藩分家。隠居した新庄直時が分与を受けた。後に本藩主直矩が早世し改易となったが、直時に3千石が足されて計1万石の大名となり麻生藩を相続した。 神保家 大和高市郡7,000石→6,000石 畠山氏家臣神保相茂と子の神保茂明が始祖。寛政重修諸家譜に寛文・延宝に交代の例あり。子孫は6千石の大身旗本寄合。 神保家 下総香取郡2,000石→1,500石 越中国の戦国大名神保氏張が徳川家に召抱えられて2千石。子の代からは旗本寄合。子孫は分与ののち1千500石。 高原家 讃岐直島2,000石 高原次利の子孫。いまだ若年の当主に対し谷衛政から養子を取り家督相続したが、お家騒動が起こり、寛文11年(1671年)、親不孝の廉により改易 多羅尾家 近江信楽2,000石→500石 多羅尾光雅から四代後の光武で無嗣断絶。その後500石で旗本として再興。 津軽家 陸奥国黒石4,000石 陸奥弘前藩分家。家康の義理の孫の津軽信英が祖。 孫の政兕の代に小普請入りして交代寄合ではなくなる。数代後に本藩より6,000石分与され、計10,000石となり諸侯に列する。 津田家 美濃3,011石余 織田氏一族の津田秀政の家系。寄合。 妻木家 美濃妻木7,500石 妻木頼忠-頼利-頼次(無嗣断絶) 無嗣断絶後、頼次の弟・幸広が土岐郡大富500石から妻木上郷500石に領地替えにて明治維新に至る。 遠山家 美濃明知6,530石余 遠山利景の次の遠山方景から4代目の伊次まで。5代伊清以降は旗本寄合。 能勢家 摂津地黄3,000石→5,300石→4,008石 能勢頼次に交代の例あり 花房家 備中内5,000石→9,500石。 旧宇喜多氏家臣の花房正成の系。2代花房幸次を経て、3代幸昌以降は旗本寄合。 平岡家 美濃1,000石→6,000石 美濃徳野藩名跡。平岡頼勝が祖。孫の代に相続問題で改易されたが、次孫の頼重に1千石を与えられ家名存続した。のち願いによって旗本寄合。 本多家 遠江4,260石余 三河岡崎藩(→信濃飯山藩)の分家。 本多忠利の庶長子の初代本多助久が分知を受けた。2代利重までが交代寄合・帝鑑間詰 長沢松平家 三河中根村11町歩芝地→三河長沢300石(小普請) 長沢松平家惣領家。交代寄合四衆・三河衆。数代の嘆願の末に一家を再興。当初は参勤は五年に一度で俸禄無し。 長沢松平家 三河形原5,000石 元越後高田藩主松平忠輝附家老松平清直が祖。形原松平家とは別家。 3代信実無嗣断絶 溝口家 越後池端5,000石 越後新発田藩の分家。溝口宣勝の三男溝口宣俊が遺命により5千石分知。3代直武以降は旗本寄合。 以下は交代寄合であったと推定される家である(真偽不明) 家領地備考赤松(石野)家 上総2,150石→3,015石→5,015石 石野氏満の長男赤松氏置から幕臣。寄合。 戸田家 美濃5,000石 美濃加納藩(→信濃松本藩)戸田松平家分家。松平光重の次男戸田光正が5千石分知。 寄合。 戸田家 美濃5,000石松平光重の三男戸田光直が5千石分知。 寄合。 宮原家 下野1,140石 古河公方足利氏一門。宮原義久が慶長7年(1602年)にのちの高家扱いとされた。子孫は高家。 由良家 常陸牛久5,400石→7,000石→1,000石 由良貞繁に7,000石。弟の由良忠繁が相続の際に不手際があり1,000石、のちの高家職。次代の寛文5年(1665年)高家。 岡本家 下野塩谷2,500石→4,373石→分知3,860石(500石分知) 岡本義保が順調に加増を重ねたが、次代の岡本義政の関与した泉騒動により改易断絶。 千本家 下野芳賀郡2,070石→3,870石 那須七騎の一氏。千本義隆の子の千本義定の孫の代に無嗣断絶。再興後旗本200石のち1,050石。 近藤家 信濃伊那郡山本4,300石 初代近藤政成は美濃内1万石、2代重直・3代重信は交代寄合。4代政徳以降寄合 久松松平家 信濃禰津5,000石 美濃大垣藩主松平忠良の庶長子であった松平忠利が父の遺領の内5,000石を分知され、寄合に列した。寛永のころに交代寄合に列したが、その後再度寄合格となった。 などである。
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