人物・逸話・資料
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二松學舎理事であった速水柳平君は、病氣になってしまったので、彼の郷里に戻り亡くなりました。ああ、心が痛みます。速水君は北越出身で、その先祖は大阪の役で活躍した七騎将、速水甲斐守守久の血筋です。守久は戦死しました。その子、勝丸は農村に隠居しました。家系は綿々として続いています。速水君は若くして郷里を旅立ちました。上京して吾が中洲先生に師事しました。中洲先生は、彼の勉強熱心な姿勢を可愛がり、教授(都講)に抜擢して教壇にたたせました。その後に、高島呑象翁に知られました。彼は商店を東京都内に開業し、建築資材を販売しました。とても儲かりました。その商売の傍らで我が學舎の財務を管理していました。不幸にして大震災に遭い、その後一人息子を失いました。速水君は何かを悟ったように家を郊外に移しました。花に水くれし、竹を洗って、その一生を終わりたいと思うようになりました。そして、(息子を失った悲しみで)妻も亡くなってしまいました。困難に合い行悩み、志を持てない状態となりました。普通の人なら耐えることができない状態です。しかし速水君は常にその心を動かされません。客人として身を寄せ、(漸く自分も)病氣になったので郷里に帰りますと皆さんにお伝えしました。何日もたっていないのに、たちまち死んでしまいました。ああ、同情してしまいます。私は、速水君の一生を通して観察してみると、状況の変化に喜んだり心配したり、いろいろな変化にとんだ一生でした。言わないでおきましょう。そうとは言えども、速水君の生きた年数は、もうじき古稀になろうとしています。短かったとは言わないでおきましょう。郷里には田地と財産があります。困窮しているとは言えません。お嬢さんも孫もいます。孤独とは言えません。同窓の友人がいます。助けがないとは言えません。竹の箱の中には詩文があります。伝える物がないとは言えません。もともと、この世の中は夢に似ています。その夢に似ている現世が、ある時は発展し、ある時は発展しないのは、天の定めです。もともと気にするほどの事ではありません。私は独り、速水君が亡くなってしまったことを残念に思います。中洲先生の銅像を鋳造しようと発議し導いてくれました。(その)計画に基づいてその運営が上手くいくようにたいそう力を尽くしました。なのにまだ完成しないうちに死んでしまいました。ああ、(死んでしまったのは)宿命なのか、天の意志なのか、まさか自分で命を絶ったのではあるまいか、ああ、心が痛みます。 貴殿、明治27年、初めに自ら二松學舎會計となり、すぐに幹事を兼ね、後に二松義會及び財団法人二松學舎の理事に就任し、前後ほぼ40年、初めから終わりまで全部を一筋に貫き通し、まごころ尽くして二松學舎の経営に、あらん限りの力を出し切っておられました。學舎の今日あるのは貴殿のおかげを受ける所が大きいです。今病氣のために辞任なさるので、この場に於いて謹んで短い感謝状をお贈りして感謝のささやかな真心の気持ちを示します。昭和7年11月 財団法人二松學舎舎長 金子堅太郎 速水柳平殿。 速水紋さんは熱田セメント会社の東京支店長に昇任なさいました。仲間がその四十間堀(誤:三十間堀の間違い)の仮住まいを訪ねたとき、読書書き物をする長方形の机の上に、慎み深くへりくだった様子で中洲先生先生の肖像を安らかに置いてありました。それで、その敬い慕う思いの厚さを知るに十分な(たとえ)話が一つ二つあります。次のようなことです。 実業界も近頃はようやく人の踏まねばならない道德の噂を聴く様になりましたが、これはまことに喜ばしい事です。西洋実業家にとって信用が非常に大きいことは羨ましいことで、お金の信用を失うと一生その人は世間ののけ者にされます。だから(速水紋さんは)決してお金の信用を失うような愚かな行動はしませんし、その上無駄な手数を省くので(彼の)仕事は機敏快活で驚くほどです。実業家には漢学者がもっとも良いです。(なぜなら)漢學の素養のある者は、たとえ仕事のやり方がゆっくりであろうとも、真心があり誠実であることはだいたい確かだからです。今の世にはすばやく立ち回る者は余るほどいるけれど、このような人は道德の上では欠点が多く途中で失敗し大いに危険です。これに反して(速水紋さんのように)真心があり誠実な人はなかなか見当たらないものです。 『細田(細田謙藏)は理事でありながら寄付金ひとつ集められない上に、性格傲慢、学門優秀である故自分自身を過信しすぎて人を軽蔑する癖あり、尾崎(尾崎嘉太郎)に関しては検査院の下級事務官で會計をしていた経験があるから會計をさせているが学門の才覚はなく独断の細田の言いなりである、池田(池田四郎次郎)に関しては細田に次いで学門文章力があるが世間の事に疎くて役立たないけれど性質は誠実謙虚である。・・・・・・・(だが)細田は今日まで義會(二松義會)に関係して世話してくれていたし(頭を下げて寄付を集めなかったが)義會を創業した功臣とも言えます。・・・・・・(しかしながら、これまで二松義會については)細田の独断に任せておりましたけれど、評議員の間では横柄な細田を(これから)解任しようという意見もあるように聞いていますから(澁澤さん今しばらく辞任なさらないでください)どうぞご理解ください。・・・・・初めは(囑託顧問らは)どなたも寄付などしてくれなかったけれど、幾度となく説明を繰り返し精力的に関係各位に哀願悲願し、募金を乞い願ったのは(私の家人である)速水柳平でありました。』。 大正7年8月2日 (二松義會の)評議員会における理事及び会長改選で、從来理事であった細田謙藏と尾崎嘉太郎は辞(落選)し、下のように選任された。理事:澁澤榮一、池田四郎次郎、速水柳平(以上再選)、尾立維孝、佐倉孫三、会長:澁澤榮一二松義會から孤立した細田謙藏・尾崎嘉太郎の2名は理事選において落選し、評議員会にて狂気な振る舞いをして皆が困惑したことが書かれている。』。 『二松義會の事について、しかるに、御承知のように私は別に漢學の素養がある者ではありません。ただ、日頃中洲翁には親しくしてもらっているので会長に当選したのでしょう。ただ今は困ったことがあります。特に、學舎の経営・調和もとかく不十分の点が見られます。つい先日の事ですが、幹事の方(細田謙藏)が変な行動に出て、理事一同幾分迷惑したところですが、今日は、前から勤めていた理事(細田謙藏・尾崎嘉太郎)が落選となったことは、将来の寄付金募集にもいろいろと障害があるであろうということは心が痛いのでございます。いずれ、今月下旬には東京に入りますので、山田先生にはじっくりお話して、私の決意を申し上げたいと思います。』 ※この後の面談で、澁澤会長はこの職を辞職したい決意を山田準と三島中洲に話した。』。 『初めはどれだけ(囑託顧問らに)出金の割り当てを定めようとも(誰も寄付等してくれる者はなく)、その後、速水理事(速水柳平)が五度も十度も身をかがめ頭を下げ、嘆き声をあげやってくる食べ物を乞う乞食のように懇願して、初めて出金(寄付)してもらえました。中には、わたくし(中洲)自ら出掛けて行ってようやく出金(寄付)してくれる人もいました。』 ※大正7年9月21日 中洲の嘆願によって澁澤榮一は会長辞任を見送り、前向きな発展で(二松義會存続の)解決しようと考える様になる。』。 中洲翁銅像を作りましょうと皆を導き、いろいろと世話をやいて駆け回ってくれたのは速水君であったのに、完成を見ないでなくなってしまった』とある。 ※二松學舎エントランスホール内に現在据置されている三島中洲銅像のことである。』。
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