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人物・逸話・資料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 15:25 UTC 版)

速水柳平」の記事における「人物・逸話・資料」の解説

二松學舎理事であった速水柳平君は、病氣になってしまったので、彼の郷里戻り亡くなりました。ああ、心が痛みます速水君は北越出身で、その先祖は大阪の役活躍した騎将速水甲斐守守久の血筋です。守久は戦死しましたその子、勝丸は農村隠居しました。家系綿々として続いてます。速水君は若くして郷里旅立ちました上京して吾が中洲先生師事しました。中洲先生は、彼の勉強熱心姿勢可愛がり教授都講)に抜擢して教壇にたたせました。その後に、高島呑象翁に知られました。彼は商店東京都内開業し建築資材販売しました。とても儲かりました。その商売傍ら我が學舎財務管理していました不幸にして大震災遭いその後一人息子失いました速水君は何かを悟ったように家を郊外移しました花に水くれし、竹を洗って、その一生終わりたい思うようなりました。そして、(息子失った悲しみで)妻も亡くなってしまいました困難に合い行悩み、志を持てない態となりました。普通の人なら耐えることができない状態です。しかし速水君は常にその心を動かされません。客人として身を寄せ、(漸く自分も)病氣になったので郷里帰ります皆さんお伝えしました何日もたっていないのに、たちまち死んでしまいました。ああ、同情してしまいます。私は、速水君の一生通して観察してみると、状況の変化喜んだり心配したり、いろいろな変化にとんだ一生でした。言わないでおきましょう。そうとは言えども、速水君の生きた年数は、もうじき古稀になろうとしてます。短かったとは言わないでおきましょう郷里には田地財産あります困窮しているとは言えません。お嬢さんも孫もいます。孤独とは言えません。同窓友人がいます。助けがないとは言えません。竹の箱の中には詩文あります伝え物がないとは言えません。もともと、この世の中は夢に似てます。その夢に似ている現世が、ある時は発展し、ある時は発展しないのは、天の定めです。もともと気にするほどの事ではありません。私は独り速水君が亡くなってしまったことを残念に思います中洲先生銅像鋳造しようと発議し導いてくれました。(その)計画基づいてその運営上手くいくようにたいそう力を尽くしました。なのにまだ完成しないうちに死んでしまいました。ああ、(死んでしまったのは)宿命なのか、天の意志なのか、まさか自分で命を絶ったのではあるまいか、ああ、心が痛みます貴殿明治27年初めに自ら二松學舎會計となり、すぐに幹事兼ね、後に二松義會及び財団法人二松學舎理事就任し前後ほぼ40年初めから終わりまで全部一筋貫き通しまごころ尽くして二松學舎経営に、あらん限りの力を出し切っておられました。學舎今日あるのは貴殿のおかげを受ける所が大きいです。今病氣のために辞任なさるので、この場に於いて謹んで短い感謝状をお贈りして感謝ささやかな真心気持ち示します昭和7年11月 財団法人二松學舎舎長 金子堅太郎 速水柳平殿。 速水紋さんは熱田セメント会社東京支店長に昇任なさいました仲間その四十間堀(誤:三十間堀間違い)の仮住まい訪ねたとき、読書書き物をする長方形の上に、慎み深くへりくだった様子中洲先生先生肖像安らかに置いてありました。それで、その敬い慕う思い厚さを知るに十分な(たとえ)話が一つ二つあります次のようなことです。 実業界近頃はようやく人の踏まねばならない道德の噂を聴く様になりましたが、これはまことに喜ばしい事です。西洋実業家にとって信用が非常に大きいことは羨ましいことで、お金信用を失うと一生その人世間のけ者されます。だから(速水紋さんは)決しお金信用を失うような愚かな行動はしませんし、その上無駄な手数を省くので(彼の仕事機敏快活で驚くほどです。実業家には漢学者がもっと良いです。(なぜなら)漢學素養のある者は、たとえ仕事のやり方がゆっくりであろうとも、真心があり誠実であることはだいたい確かだからです。今の世にはすばやく立ち回る者は余るほどいるけれど、このような人は道德の上では欠点多く途中で失敗し大いに危険です。これに反して速水紋さんのように)真心があり誠実な人はなかなか見当たらないものです。 『細田細田謙藏)は理事ありながら寄付金ひとつ集められない上に、性格傲慢学門秀である故自分自身過信しすぎて人を軽蔑する癖あり、尾崎尾崎嘉太郎に関して検査院の下級事務官會計をしていた経験があるから會計をさせているが学門才覚はなく独断細田言いなりである、池田池田四郎次郎に関して細田次いで学門文章力があるが世間の事に疎く役立たないけれど性質は誠実謙虚である。・・・・・・・(だが)細田今日まで義會(二松義會)に関係して世話してくれていたし頭を下げて寄付集めなかったが)義會を創業した功臣とも言えます。・・・・・・(しかしながらこれまで二松義會については)細田独断任せておりましたけれど、評議員の間では横柄な細田を(これから解任しようという意見あるよう聞いてますから澁澤さん今しばらく辞任なさらないください)どうぞご理解ください。・・・・・初めは(囑託顧問らは)どなたも寄付などしてくれなかったけれど、幾度となく説明繰り返し精力的に関係各位哀願悲願し、募金乞い願ったのは(私の家人である)速水柳平ありました。』。 大正7年8月2日二松義會の)評議員会における理事及び会長改選で、從来理事であった細田謙藏尾崎嘉太郎は辞(落選)し、下のように選任された。理事澁澤榮一池田四郎次郎速水柳平(以上再選)、尾立維孝佐倉孫三会長澁澤榮一二松義會から孤立した細田謙藏尾崎嘉太郎の2名は理事選において落選し評議員会にて狂気振る舞いをして皆が困惑したことが書かれている。』。 『二松義會の事について、しかるに御承知のように私は別に漢學素養がある者ではありません。ただ、日頃中洲翁には親しくしてもらっているので会長当選したのでしょうただ今困ったことあります。特に、學舎経営調和もとかく不十分の点が見られます。つい先日の事ですが、幹事の方(細田謙藏)が変な行動出て理事一同幾分迷惑したところですが、今日は、前から勤めていた理事細田謙藏尾崎嘉太郎)が落選となったことは、将来寄付金募集にもいろいろと障害があるであろうということは心が痛いのでございます。いずれ、今月下旬には東京入りますので、山田先生にはじっくりお話して、私の決意申し上げたい思います。』 ※この後面談で、澁澤会長はこの職を辞職したい決意山田準三島中洲話した。』。 『初めはどれだけ(囑託顧問らに)出金割り当て定めようとも(誰も寄付等してくれる者はなく)、その後速水理事速水柳平)が五度十度も身をかがめ頭を下げ嘆き声をあげやってくる食べ物乞う乞食のように懇願して初め出金寄付)してもらえました中には、わたくし(中洲)自ら出掛けて行ってようやく出金寄付)してくれる人もいました。』 ※大正7年9月21日 中洲嘆願によって澁澤榮一会長辞任見送り前向きな発展で(二松義會存続の)解決しよう考え様になる。』。 中洲銅像作りましょうと皆を導きいろいろと世話をやいて駆け回ってくれたのは速水であったのに、完成見ないなくなってしまった』とある。 ※二松學舎エントランスホール内に現在据置されている三島中洲銅像のことである。』。

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