人物・逸話・俗説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 01:06 UTC 版)
旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で、日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」を意味するといわれている。 家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた。夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍を記している。幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった。徳川に敵対したにも関わらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。 信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。 「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる(諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。 大坂の陣において後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。 『真竹内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高い。 大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある。
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