交響曲から協奏曲へ
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「ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)」の記事における「交響曲から協奏曲へ」の解説
6月にチャイコフスキーはロンドンで自作の『交響曲第4番』を指揮した。その地で、5年前にパリで出逢ったピアニストのルイ・ディエメとばったり再会した。ロンドンの演奏会の後でケンブリッジを訪れ、ケンブリッジ大学より名誉博士号を授与されている(同じ席上で、カミーユ・サン=サーンスとマックス・ブルッフも表彰された)。その後、一時ロンドンに戻り、そこからパリに直行した。そしてパリからスイスとオーストリア経由でロシアに戻った。まずはコンラーディ家の領地グラキノに滞在して新作の協奏曲を書き上げ、それからやっとクリンの自宅に向けて帰路に就いた。 『ピアノ協奏曲第3番』でディエメが意識されていたことからすると、破棄した交響曲の一部をピアノ協奏曲に仕立て直そうというチャイコフスキーの決心は、ディエメと旧交を温めたことによって強まったのかも知れない。ディエメは当時のフランスのピアノ界の最高峰の一人であり、フランス国内では「音階とトリル奏法の王者」として知られていた。ディエメの門人は、多くはフランスの音楽史上で傑物として名を残しており、たとえばヴァンサン・ダンディやアルフレッド・コルトー、ロベール・カサドシュがいる。 チャイコフスキーにとってより重要だったのは、ディエメはその経歴を通じて、多くのフランス音楽を初演してきたことであり、たとえばセザール・フランクの『交響的変奏曲』もディエメが初演者だった。しかもディエメは、1888年にパリで行われた室内楽の音楽祭で、チャイコフスキーの『協奏的幻想曲ト長調』作品56を2台ピアノ版で取り上げたのである(第2ピアノはチャイコフスキー自身が弾いた)。チャイコフスキーの新作に興味を持つだけでなく、それを攻略することもできるような芸術家がいるとすれば、それがディエメにほかならなかった。過去に『ピアノ協奏曲第1番』や『ヴァイオリン協奏曲』をめぐってニコライ・ルビンシテインやレオポルト・アウアーと不和になったことを思えば、チャイコフスキーは無条件に面白がってもらえる可能性をディエメから気軽に引き出すことなどできなかったであろう。 チャイコフスキーは『悲愴』交響曲を仕上げると、再びピアノ協奏曲に向き直るが、再び疑念の波に襲われるばかりであった。ピアニストのアレクサンドル・ジロティに、「音楽については、そこそこ捗っている。だが、あまり気持ちのいい作品ではない」と告げている。1893年10月6日には、ポーランドのピアニストで作曲家のシギスムント・ストヨフスキに宛てて、「(先日)書き送ったように、新作の交響曲は出来上がりました。今や私は、われらが親愛なるディエメ氏のための新作協奏曲の総譜づくりに取り掛かっています。彼に逢った時には、お伝え下さい。私はその仕事を続けていて、気が付いたらこの協奏曲は、うんざりするほど恐るべき長さになってしまったと。それゆえ私は、一つの楽章だけを残して、それだけで一つの完全な協奏曲をまとめ上げることに決めました。後半の2楽章が使い物にならなくなったのですから、あとの仕事は、曲にもっと手を入れるだけです。」その同日(10月6日)にチェリストのユリアン・ポプロフスキーが、チャイコフスキーのクリンの自宅に訪ねて来て、チャイコフスキーが自筆譜に目を通していたのを知った。 単一楽章の『演奏会用アレグロ』(フランス語: Allegro de concert)ないしは『コンツェルトシュテュック』(ドイツ語: Concertstück)の選択は、フランクの『交響的変奏曲』や交響詩『ジン』、フォーレの『バラード』といった近代フランスのピアノと管弦楽のための作品群に相和する。チャイコフスキーが楽曲の大胆なカットを思い付いたのは、これが初めてでもなかった。チャイコフスキーの伝記作家で音楽学者のジョン・ウォラックは、チャイコフスキーがパリでディエメと演奏した『協奏的幻想曲』が、当初は2楽章の作品として構想されたことに、注意するように説いている。チャイコフスキーの心はこの作品の両楽章をそのまま残すか、もしくは "Quasi Rondo" の第1楽章のみを単独で出版するかで揺れ動いていた。結局、彼は両楽章をそのまま残しつつ、『協奏的幻想曲』の出版に際してその余録として12ページの「かなりおどけた華麗さを持つ」コーダを付けることにした。彼はこれを第2楽章を飛ばす場合にのみ演奏するように、と指示している。. チャイコフスキーは自身の元生徒で友人のセルゲイ・タネーエフにある期間頼り、ピアノ特有の事柄について技術的な助言を得ていた。「アレグロ・ブリランテ」のスコアを1893年10月に書き上げると、タネーエフにおおまかな感想を求めた。しかし、幼少期にタネーエフとともに作曲を学び、彼を通してチャイコフスキーに会った音楽作家で作曲家のレオニード・サバネーエフによると、「チャイコフスキーはタネーエフをいくらか恐れているように思われた。タネーエフがチャイコフスキーの作品に対して全く歯に衣着せぬ感想を言うため、彼は狼狽しているようだった。タネーエフは、長所は言うまでもなく明白である一方、一般に落ち度と考える点は正確に示さなければならないと信じていた。自分が断罪する点について、完全に譲歩することは滅多にしなかった。作曲家は非常に神経質で、しばしば自分自身に強く不満を持つものである。チャイコフスキーはまさにそういう人物であった。全ての作品について病的なほどに自信がなく、しばしばそれらを破棄しようとさえした…」 サバネーエフは、チャイコフスキーが交響曲第5番をタネーエフに見せに来たときのことも追想する。タネーエフはピアノで原稿の一部を弾き始めた。「タネーエフは独特の学者ぶった物言いで落ち度と考えるものを示し始め、それによってチャイコフスキーをさらに大きな失望へと突き落とした。チャイコフスキーは楽譜をつかむと赤鉛筆で『酷いゴミ』と書きなぐった。その刑罰にもまだ満足せず、楽譜を半分に引き裂いて床に投げ捨てた。そして部屋から走り出てしまった。タネーエフは落胆して楽譜を拾い、私にこう言った。『ピョートル・イリイチは全てを深刻にとらえるんだ。結局彼自身が私の意見を求めたのに』…」 『ピアノ協奏曲第3番』に関しては、タネーエフは独奏パートに典型的な超絶技巧が欠けていると思った。チャイコフスキーはジロティに、タネーエフも協奏曲については自分と同じく評価が低いと告げている。だがその会見の後、チャイコフスキーの弟モデストはジロティに対し、兄の恐れは続かないだろうという彼の確信を述べている。モデストはタネーエフが下した評価に疑問を差し挟むことはしなかったものの、チャイコフスキーは既にディエメに対して協奏曲の完成を約束しており、何より約束を破らないことを証明したいだろうから総譜を見せたがっている、と述べている。 その後、1ヶ月もしないうちに、チャイコフスキーは息を引き取った。 作曲家の死から数ヵ月すると、モデスト・チャイコフスキーはタネーエフに、未完成のまま残された兄の自筆譜を完成するように頼んでいる。タネーエフは、1894年6月末にこの仕事に着手する。同年9月に、ユルゲンソン社は、「アレグロ・ブリランテ」楽章を『ピアノ協奏曲第3番』として出版することに同意し、翌月には印刷の準備が整った。 チャイコフスキーの没後1周年の記念演奏会において、タネーエフのピアノで『ピアノ協奏曲第3番』を初演することが企画された。この初演は、総譜とパート譜が時間に間に合わなかったために延期された。1894年12月18日になってもタネーエフは出版譜を受け取っていない始末だったという。結局タネーエフは『ピアノ協奏曲第3番』の初演を、1895年1月7日にサンクトペテルブルクにおいて、エドゥアルド・ナープラヴニークの指揮で行なった。その後タネーエフは日記に、「演奏は良かったがあまり成功しなかった。1度きりしか(舞台に)呼び戻されなかった」と書き入れた。 ユルゲンソン社は『第3番』の総譜のほかに、1894年11月に2台ピアノ版を、1895年3月にはパート譜を出版した。
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