交響曲から協奏曲へとは? わかりやすく解説

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交響曲から協奏曲へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 01:43 UTC 版)

ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)」の記事における「交響曲から協奏曲へ」の解説

6月チャイコフスキーロンドン自作の『交響曲第4番』を指揮した。その地で、5年前パリ出逢ったピアニストルイ・ディエメとばったり再会したロンドン演奏会後でケンブリッジ訪れケンブリッジ大学より名誉博士号授与されている(同じ席上で、カミーユ・サン=サーンスマックス・ブルッフ表彰された)。その後一時ロンドン戻り、そこからパリ直行した。そしてパリからスイスオーストリア経由ロシア戻った。まずはコンラーディ家の領地グラキノに滞在して新作協奏曲書き上げ、それからやっとクリンの自宅向けて帰路就いた。 『ピアノ協奏曲第3番』でディエメ意識されていたことからすると破棄した交響曲一部ピアノ協奏曲仕立て直そうというチャイコフスキー決心は、ディエメ旧交を温めたことによって強まったかも知れないディエメ当時フランスピアノ界の最高峰一人であり、フランス国内では「音階トリル奏法王者」として知られていた。ディエメ門人は、多くフランス音楽史上で傑物として名を残しており、たとえばヴァンサン・ダンディアルフレッド・コルトーロベール・カサドシュがいる。 チャイコフスキーにとってより重要だったのは、ディエメはその経歴通じて多くフランス音楽初演してきたことであり、たとえばセザール・フランクの『交響的変奏曲』もディエメ初演者だった。しかもディエメは、1888年パリ行われた室内楽音楽祭で、チャイコフスキーの『協奏的幻想曲ト長調作品562台ピアノ版で取り上げたのである(第2ピアノチャイコフスキー自身弾いた)。チャイコフスキー新作興味を持つだけでなく、それを攻略するともできるような芸術家がいるとすれば、それがディエメにほかならなかった。過去に『ピアノ協奏曲第1番』や『ヴァイオリン協奏曲』をめぐってニコライ・ルビンシテインレオポルト・アウアー不和になったことを思えばチャイコフスキー無条件面白がってもらえる可能性ディエメから気軽に引き出すことなどできなかったであろうチャイコフスキーは『悲愴交響曲仕上げると、再びピアノ協奏曲向き直るが、再び疑念の波に襲われるばかりであったピアニストアレクサンドル・ジロティに、「音楽については、そこそこ捗っている。だが、あまり気持ちのいい作品ではない」と告げている。1893年10月6日には、ポーランドピアニスト作曲家シギスムント・ストヨフスキ宛てて、「(先日書き送ったように、新作交響曲出来上がりました今や私は、われらが親愛なるディエメ氏のための新作協奏曲総譜づくりに取り掛かってます。彼に逢った時にはお伝え下さい。私はその仕事続けていて、気が付いたらこの協奏曲は、うんざりするほど恐るべき長さになってしまったと。それゆえ私は、一つ楽章だけを残してそれだけ一つの完全な協奏曲まとめ上げることに決めました後半の2楽章使い物にならなくなったのですから、あとの仕事は、曲にもっと手を入れるだけです。」その同日10月6日)にチェリストのユリアン・ポプロフスキーが、チャイコフスキーのクリンの自宅訪ねて来てチャイコフスキー自筆譜目を通していたのを知った単一楽章の『演奏会用アレグロ』(フランス語: Allegro de concertないしはコンツェルトシュテュック』(ドイツ語: Concertstück)の選択は、フランクの『交響的変奏曲』や交響詩ジン』、フォーレの『バラード』といった近代フランスピアノと管弦楽のための作品群に相和するチャイコフスキー楽曲大胆なカット思い付いたのは、これが初めてでもなかった。チャイコフスキー伝記作家音楽学者ジョン・ウォラックは、チャイコフスキーパリディエメ演奏した協奏的幻想曲』が、当初は2楽章作品として構想されたことに、注意するように説いている。チャイコフスキーの心はこの作品の両楽章そのまま残すか、もしくは "Quasi Rondo" の第1楽章のみを単独出版するかで揺れ動いていた。結局、彼は両楽章そのまま残しつつ、『協奏的幻想曲』の出版に際してその余録として12ページの「かなりおどけた華麗さを持つ」コーダ付けることにした。彼はこれを第2楽章を飛ばす場合にのみ演奏するように、と指示している。. チャイコフスキー自身元生徒友人セルゲイ・タネーエフにある期間頼りピアノ特有の事柄について技術的な助言得ていた。「アレグロ・ブリランテ」のスコア1893年10月書き上げると、タネーエフおおまかな感想求めた。しかし、幼少期タネーエフとともに作曲学び、彼を通してチャイコフスキー会った音楽作家作曲家レオニード・サバネーエフによると、「チャイコフスキータネーエフいくらか恐れているように思われた。タネーエフチャイコフスキー作品に対して全く歯に衣着せぬ感想を言うため、彼は狼狽しているようだった。タネーエフは、長所言うまでもなく明白である一方一般に落ち度考える点は正確に示さなければならない信じていた。自分断罪する点について、完全に譲歩することは滅多にしなかった。作曲家は非常に神経質で、しばしば自分自身強く不満を持つものであるチャイコフスキーはまさにそういう人物であった全ての作品について病的なほどに自信がなく、しばしばそれらを破棄しようとさえした…」 サバネーエフは、チャイコフスキー交響曲第5番タネーエフ見せに来たときのことも追想するタネーエフピアノ原稿一部弾き始めた。「タネーエフは独特の学者ぶった物言い落ち度考えるものを示し始め、それによってチャイコフスキーをさらに大きな失望へと突き落としたチャイコフスキー楽譜をつかむと赤鉛筆で『酷いゴミと書きなぐった。その刑罰にもまだ満足せず楽譜半分引き裂いて床に投げ捨てた。そして部屋から走り出てしまった。タネーエフ落胆して楽譜拾い、私にこう言った。『ピョートル・イリイチは全て深刻にとらえるんだ結局自身が私の意見求めたのに』…」 『ピアノ協奏曲第3番に関しては、タネーエフ独奏パート典型的な超絶技巧欠けていると思ったチャイコフスキーはジロティに、タネーエフ協奏曲については自分と同じく評価が低いと告げている。だがその会見の後、チャイコフスキーの弟モデストはジロティに対し、兄の恐れ続かないだろうという彼の確信述べている。モデストタネーエフ下した評価疑問差し挟むことはしなかったものの、チャイコフスキーは既にディエメに対して協奏曲完成約束しており、何より約束破らないことを証明したいだろうか総譜見せたがっている、と述べている。 その後1ヶ月もしないうちに、チャイコフスキー息を引き取った作曲家の死から数ヵ月すると、モデスト・チャイコフスキータネーエフに、未完成のまま残された兄の自筆譜完成するように頼んでいる。タネーエフは、1894年6月末にこの仕事着手する同年9月に、ユルゲンソン社は、「アレグロ・ブリランテ」楽章を『ピアノ協奏曲第3番』として出版することに同意し翌月には印刷準備整ったチャイコフスキー没後1周年記念演奏会において、タネーエフピアノで『ピアノ協奏曲第3番』を初演することが企画された。この初演は、総譜パート譜時間に間に合わなかったために延期された。1894年12月18日になってタネーエフ出版譜を受け取っていない始末だったという。結局タネーエフは『ピアノ協奏曲第3番』の初演を、1895年1月7日サンクトペテルブルクにおいて、エドゥアルド・ナープラヴニーク指揮行なったその後タネーエフ日記に、「演奏良かったがあまり成功しなかった。1度きりしか(舞台に)呼び戻されなかった」と書き入れたユルゲンソン社は『第3番』の総譜のほかに、1894年11月2台ピアノ版を、1895年3月にはパート譜出版した

※この「交響曲から協奏曲へ」の解説は、「ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)」の解説の一部です。
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