交響曲の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:17 UTC 版)
「交響曲第2番 (マーラー)」の記事における「交響曲の完成」の解説
1893年1月にマーラーは「交響詩」を改訂(=第1交響曲第2稿)。7月にザルツブルクの近郊、アッター湖畔にあるシュタインバッハにおいて、「第2番」の第2楽章から第4楽章までを完成させた。このとき、『子供の不思議な角笛』の新たな1曲「魚に説教する聖アントニウス」も第3楽章と同じ材料に基づいて作曲されている。マーラーはこの年から夏休みをシュタインバッハで作曲に専念して過ごすようになり、また、バート・イシュルに滞在していたブラームスを訪問して知己を求めている。 同年10月、マーラーは改訂した「交響詩」に『巨人』の標題を付してハンブルクで演奏、翌1894年7月ヴァイマルで再演するが、いずれも成功しなかった。 1894年2月12日、ビューローがカイロで客死し、3月29日ハンブルクのミヒャエリス教会で葬儀が行われた。この葬儀に出席したマーラーは、オルガンと合唱によるクロプシュトックの「復活」を聴き、交響曲の終楽章の歌詞に使用することを思いつく。この時の感動をマーラーは「あたかも稲妻のようにわたくしの身体を貫き、曲の全体の形がわたくしの前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」(友人のザイドルに充てた手紙から)と書いている。まず、テキストの最初の二連を使い、各連末尾の「ハレルヤ」は削除、三連以降は自作の歌詞を加筆した。4月に「葬礼」を小節数短縮、編成拡大などの改訂を施して第1楽章とし、6月には総譜の下書きが完成する。最終稿ができあがったのは、12月18日ハンブルクにおいてであった。
※この「交響曲の完成」の解説は、「交響曲第2番 (マーラー)」の解説の一部です。
「交響曲の完成」を含む「交響曲第2番 (マーラー)」の記事については、「交響曲第2番 (マーラー)」の概要を参照ください。
- 交響曲の完成のページへのリンク