二世曽呂利新左衛門とは? わかりやすく解説

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二世 曽呂利新左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 05:31 UTC 版)

曽呂利新左衛門」の記事における「二世 曽呂利新左衛門」の解説

二世 曽呂利 新左衛門(にせ そろり しんざえもん天保13年10月15日1842年11月17日) - 1923年7月2日)は、大阪生まれの上噺家本名: 重次郎(いさと じゅうじろう)。 大坂新町友禅染屋に生まれる。父は悉皆屋倉橋与兵衛幼少時から素人落語加わり桂猫丸夢丸文の家かしくなどを名乗る。しかし、18歳時に家族内緒玉龍一山席亭務めるいろは山席に出演していたところを同じ職人に見つかり、このことで父に勘当され家出をし、やむを得ず堀江油屋から幇間となって京都で千九八、大坂堀江で観八を名乗る一方で玄人客分貸席活動1865年初代笑福亭松鶴門に入り京都矢田の席で初舞台以降京都笑福亭で高座務め二代目笑福亭松竹となる。後、大阪戻り笑福亭梅香名乗るが、師匠との不和死去などで再び幇間地方廻り余儀なくされた。大阪戻り新町九軒末廣亭松竹梅花改める。1869年10月座長となり、再び旧名笑福亭梅香に戻る。1873年3月それまで客分弟子であった初代桂文枝正式な門下になり、初代桂文之助名乗る同門初代桂文三(→二代目桂文枝桂文左衛門)、二代目桂文都(→二代目月亭文都)、初代桂文團治と共に、「四天王」と称えられた。文没後二代目襲名争い一門混沌とし、1年ほど東京寄席出演1885年には京都幾代席に出演このころから絵画久保田米僊に、茶道武者小路千家学び松露庵宋拾を称したこともある。1886年久保田米僊らの勧めにより二代目曽呂利新左衛門襲名。ただし「偽」洒落てニセ」と読ませるため、あえて二世曽呂利新左衛門と名乗った1887年座員席亭不和になり幾代席を離れ大阪戻ったが、以降名古屋など地方多くなる1896年正月から三友派客分加入その後会長勤めた1910年68歳引退して三友派顧問就任1912年正式に引退披露興行行った以降風流三昧余生過ごした。 大ネタよりも、軽い小噺や、座敷芸などで本領発揮したどちらかというと才人肌の人であった上方膝隠し見台使わず演じた最初噺家とされるまた、多く新作改作をも物にし、達者筆遣い活字化している。また余芸で得意の絵を生かし客から端唄お題貰いその端唄唄いながら端唄にちなん絵を描くという芸も評判になっている数々奇行でも知られ1914年6月には「香典保存会」と銘打って生き葬式生前葬)を挙行、この会で集めた香典余生生活費充てた。実際死後行われた本葬では寺中造花飾りつけ生前あだ名が「お骨生焼けであったことから、自らの頭蓋骨ガラス箱に入れて参列者に見物させたりした。墓所大阪市天王寺区の隆専寺。法名: 轉譽法輪仙居士。 弟子には二代目桂文之助三代目桂梅香三代目桂藤兵衛元川傳吉)、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる後の川上音二郎)、初代桂枝太郎二代目桂猫丸桂柳枝らがいる。 また実の子猪桃太郎歌舞伎十一代目片岡仁左衛門門下になって片岡太郎名乗ったSPレコードは『紙手紙』『馬部屋』等の数種類残されていて上方落語の最も古い録音往事芸風偲ぶことができる。

※この「二世 曽呂利新左衛門」の解説は、「曽呂利新左衛門」の解説の一部です。
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