桂 文三

芸名 | 桂 文三 |
芸名フリガナ | かつら ぶんざ |
性別 | 男性 |
生年月日 | 1967/7/25 |
星座 | しし座 |
干支 | 未年 |
血液型 | A |
出身地 | 大阪府 |
身長 | 160 cm |
体重 | 80 kg |
URL | https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=806 |
プロフィール | 1967年生まれ、大阪府出身の落語家。主な出演作は『里見まさとのおおきに!サタデー』など。2013年4月、柏原リビエールホール名誉館長に就任。趣味は、食事、DVD鑑賞、パソコンいじり。 |
代表作品1年 | 2012~ |
代表作品1 | ラジオ大阪『里見まさとのおおきに!サタデー』 |
職種 | お笑い |
趣味・特技 | 食事/DVD鑑賞/パソコンいじり |
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桂文三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 08:32 UTC 版)
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桂 文三(かつら ぶんざ)は、上方落語の名跡。本名跡は約90年絶えていたが、桂つく枝が2009年5月16日に5代目を襲名した[1]。

- 江戸
- 桂文三 - 生没年不詳(活動時期は明治末期[要出典]から昭和10年代[2])[注釈 2]。本名: 浅倉 喜一郎[2]。こちらはぶんざと読まず、ぶんぞうと読む。 最初2代目三遊亭圓左の門で三遊亭左傳次、1916年に三遊亭小圓左、1918年に一時春風亭柳若(師匠等不明)を名乗るがすぐに小圓座に戻る[2]。1920年に圓昇(師匠等不明)[2]。俗初代柳家三語楼の門で三朝楼[2]。1926年に重楼[2]。1935年に8代目桂文治の門で文三になる[2]。
- 上方
- 桂文三 - 以上の各代以前にも、初代桂文治門下に文三の名が見える[3]。
- 桂文三 - 天保14年(1843年)の見立番付の前座にも、別の文三の名が見られる[要出典]。
- 初代桂文三 - のちの桂文左衛門[3]。
- 2代目桂文三 - 当該項目で記述。
- 3代目桂文三 - 当該項目で記述。
- 4代目桂文三 - 本項にて記述。
- 代外桂文三 - 3代目文三門下の初代桂ざこばは、4代目文三没後、5代目文三を名乗っていたが、正式な襲名などは行わなかったようで、代数に入れられていない[要出典]。
- 5代目桂文三 - 当該項目で記述。
4代目
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本名 | 高田卯之助 |
---|---|
生年月日 | 1886年 |
没年月日 | 1921年10月10日 |
出身地 | ![]() |
師匠 | 3代目桂文三 |
名跡 | 1. 桂小文吾(? - 1904年) 2. 桂小文三(1904年 - 1921年) 3. 4代目桂文三(1921年) |
活動期間 | ? - 1921年 |
活動内容 | 上方落語 |
家族 | 3代目桂文三(父) |
4代目 桂 文三(かつら ぶんざ、1886年 - 1921年10月10日[3])は、明治・大正時代の上方落語の落語家。本名: 高田卯之助[3]。
3代目文三の実子[3]。 18歳の時、父の門下であった3代目桂扇枝を頼って密かに神戸の寄席に出るが、間もなく父の知るところとなり、正式に父のもとに入門し桂小文吾を名乗る。父の方針により京都で修行したが、前座時代は真面目で「模範前座」と言われるほど器用であり、将来を嘱望された。1904年に小文三と改名して大阪の父の元に戻り[要出典]、1921年4月に4代目文三を襲名するも、その半年後に 脱腸の手術が失敗して[要出典]急逝[3][注釈 3]。享年35[3]。
初代桂雀三郎(後の2代目桂小文枝)や初代桂三輔(後の初代桂ざこば)らとともに桂派の若手として活躍するが、明治末期に父ととも三友派に移籍した[3]。『名古屋甚句』や『オッペケペー』などの音曲も得意とした[3]。音曲や小噺をSPレコードに録音している[3]。
脚注
注釈
出典
参考文献
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- 月亭春松 編『落語系圖』植松秀一郎(自費出版・春松の本名)、929年。NDLJP:1194413。
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X。
- 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM)、APP、2005年。
関連項目
固有名詞の分類
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