ロシアの歴史認識・評価
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「ノモンハン事件」の記事における「ロシアの歴史認識・評価」の解説
ハルハ河勝利の立役者であるジューコフは1940年5月に上級大将に昇進し、ソ連最大の軍管区であるキエフ特別軍管区司令官に就任。その後、赤軍参謀総長に就任し、ハルハ河での勝利が栄達のきっかけとなった。ハルハ河の戦闘はハンニバルがローマ帝国軍を大破したカンナエの戦いに例えられ、各種兵器を統合運用しての機械化兵力による優れた両翼包囲の典型だと絶賛された。ソ・蒙軍前線集団司令官シュテルンは「カンネーの戦いに似ている。これは史上二度目の完璧な包囲戦となるだろう」と述べている。歴史研究家ウィリアムスパールは「ジューコフはカンネの戦いを再現した。ハンニバルがテレンティウス・ファロ率いるローマ軍を破ってから二千年の歳月を得て乾いたモンゴル草原の幅74キロ、長さ20キロの戦場で両翼包囲を成功させた」と述べている。歴史研究家オットー・プレストンは「この戦闘においてジューコフは作戦指揮に自分の流儀を確立した。強い指導力・大胆な攻撃・革新性・陸空の巧妙な連携・必要なら膨大な犠牲もいとわない覚悟が彼の持ち味だった。強い重圧下でも平静を保ち状況を完璧に把握できた」と述べ、ジューコフを高く評価している。 キエフ特別軍管区司令官に任命された数日後にジューコフは初めてスターリンに引見され、ハルハ河の戦闘での日本軍についてスターリンから直接質問されたが、「我々とハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。特に接近戦闘でそうです」「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降参せず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、特に古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。日本軍の技術については、私は遅れていると思います。わが軍のMS1型に似た日本軍の戦車は老朽となり、装備も悪く、行動半径も小さい。また戦闘の初期には日本空軍がわが空軍機を撃墜したことは確かです。日本軍飛行機は、わが軍に『チャイカ』改良型やI16型を配備しない前にはわが方より優勢でした。しかし味方にスムシケビッチを代表とするソ連邦英雄の飛行士団が加わってからは、わが空軍の優勢は目に見えてきました。総じて我々が日本軍のいわゆる皇軍部隊と呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調せねばなりません」と日本軍に対する評価を述べている。時にこの評価が「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」や「日本軍を評して兵は勇猛果敢、しかし将は無能の極みである」などとジューコフ自身の原典とは表現を変えて意訳される時もある。また、ジューコフは前線視察を渋る指揮官など、自軍の第一線の将校の能力に不満を抱いており、この日本軍を評したとする分析は、そのまま自軍であるソ連軍を評する意図があったという指摘もある。 ジューコフはその後、大祖国戦争でナチス・ドイツを打倒する立役者となったが、第二次世界大戦後に一番苦戦した戦場を聞かれて「Khalkhin Gol(ハルヒーン・ゴル)」(ハルハ河のことでノモンハンをさす)と答えたといわれる。ジューコフがノモンハンの戦いを厳しいと考えていたのは、前線から妻のディエブナに対して「日本のサムライを殲滅する仕事は今日終わるだろう。敵を打ち負かすのに100門を超える大砲と大量の兵器、あらゆる機材を投入した。戦闘は終始厳しかった。だから司令官として不眠不休だった」と書いた手紙でも垣間見ることができる。しかし、ジューコフ本人は自身の回顧録で生涯で最も記録に残っている戦いはモスクワ防衛戦、生涯で最も苦労したのはNKVD長官ベリヤの逮捕だと語っている。1945年6月9日のベルリン記者会見ではノモンハンの戦いをどう思うか?、日本兵とドイツ兵の違いはなにか?と質問に対して、(ドイツ兵)は1939年に戦った日本兵より技量は優れていたと答えている。ジューコフ本人の回顧録にもシーモノフの『G・K・ジューコフ評伝ノート』にも、このエピソードに対する一切の記録がないため、話の信憑性は不明である[要出典]。 実際にジューコフが戦った日本軍の主力部隊である第23師団は、新設された特設師団で精鋭とは言い難く、この新設師団が100日以上も優勢なソ連軍とわたりあったのは日本軍側でも驚きをもって見られている。一方でソ連軍側の主力となった第57狙撃師団、第82狙撃師団はカテゴリーIIIに分類される二線級師団であり、基幹要員の充足率は25%未満だった。中でも第82狙撃師団の30%は二週間ほどの訓練で投入された新兵で占められ、素人同然の師団を指揮しながら勝利を収めたジューコフの手腕は対フィンランドの冬戦争時の醜態と比較されて高く評価された[要出典]。 勝敗認識については、単なる史実研究を超え現代における国家の名誉に関わりかねない神経質な論点を含んでいる。こういった「歴史の見直し」の動きに対してソビエト崩壊後は比較的容認の態度にあったが、再び「強いロシア」を標榜するようになったロシアは神経を尖らせており「正義の戦いに勝利した解放者=ソ連」という従来の歴史認識を堅持しようとしているとの批評がある。2009年8月6日、ウランバートルで開かれた「ノモンハン事件70周年」の記念行事に出席したドミートリー・メドヴェージェフ大統領は「この勝利の本質を変えるような捏造は容認しない」と演説した。
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