ロシアの歴史認識・評価とは? わかりやすく解説

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ロシアの歴史認識・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「ロシアの歴史認識・評価」の解説

ハルハ河勝利立役者であるジューコフ1940年5月上級大将昇進しソ連最大軍管区であるキエフ特別軍管区司令官に就任その後赤軍参謀総長就任しハルハ河での勝利栄達きっかけとなったハルハ河戦闘ハンニバルローマ帝国軍を大破したカンナエの戦い例えられ各種兵器統合運用しての機械化兵力による優れた両翼包囲典型だと絶賛された。ソ・蒙軍前線集団司令官シュテルンは「カンネーの戦い似ている。これは史上二度目完璧な包囲戦となるだろう」と述べている。歴史研究家ウィリアムスパールは「ジューコフカンネの戦い再現したハンニバルがテレンティウス・ファロ率いローマ軍破ってから二千年の歳月得て乾いたモンゴル草原の幅74キロ長さ20キロ戦場両翼包囲成功させた」と述べている。歴史研究家オットー・プレストンは「この戦闘においてジューコフ作戦指揮自分流儀確立した。強い指導力大胆な攻撃革新性・陸空の巧妙な連携必要なら膨大な犠牲いとわない覚悟彼の持ち味だった。強い重圧下でも平静保ち状況完璧に把握できた」と述べジューコフ高く評価している。 キエフ特別軍管区司令官任命され数日後ジューコフ初めスターリン引見され、ハルハ河戦闘での日本軍についてスターリンから直接質問されたが、「我々とハルハ川戦った日本兵はよく訓練されている。特に接近戦闘そうです」「彼らは戦闘規律をもち、真剣で頑強、特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され狂信的な頑強さ戦います。若い指揮官決ったように捕虜として降参せず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、特に古参、高級将校訓練弱く積極性がなくて紋切型行動しできないようです。日本軍技術については、私は遅れていると思いますわが軍のMS1型に似た日本軍戦車老朽となり、装備悪く行動半径小さい。また戦闘初期には日本空軍がわが空軍機を撃墜したことは確かです。日本軍飛行機は、わが軍に『チャイカ改良型I16型を配備しない前にはわが方より優勢でした。しかし味方にスムシケビッチを代表とするソ連邦英雄飛行士団が加わってからは、わが空軍優勢目に見えきました総じて我々が日本軍いわゆる皇軍部隊呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調せねばなりません」と日本軍対す評価述べている。時にこの評価が「日本軍下士官兵頑強で勇敢であり、青年将校狂信的な頑強さで戦うが、高級将校無能である」や「日本軍評して兵は勇猛果敢、しかし将は無能極みである」などとジューコフ自身原典とは表現変えて意訳される時もある。また、ジューコフ前線視察渋る指揮官など、自軍第一線将校能力に不満を抱いており、この日本軍評したとする分析は、そのまま自軍であるソ連軍評する意図があったという指摘もある。 ジューコフその後大祖国戦争ナチス・ドイツ打倒する立役者となったが、第二次世界大戦後に一番苦戦した戦場聞かれて「Khalkhin Gol(ハルヒーン・ゴル)」(ハルハ河のことでノモンハンをさす)と答えたといわれるジューコフノモンハン戦い厳しいと考えていたのは、前線から妻のディエブナに対して日本サムライ殲滅する仕事今日終わるだろう。敵を打ち負かすのに100門を超える大砲大量兵器あらゆる機材投入した戦闘終始厳しかった。だから司令官として不眠不休だった」と書いた手紙でも垣間見ることができる。しかし、ジューコフ本人自身回顧録生涯で最も記録残っている戦いモスクワ防衛戦生涯で最も苦労したのはNKVD長官ベリヤ逮捕だと語っている。1945年6月9日ベルリン記者会見ではノモンハン戦いをどう思うか?、日本兵ドイツ兵の違いはなにか?と質問に対して、(ドイツ兵)は1939年戦った日本兵より技量優れていたと答えている。ジューコフ本人回顧録にもシーモノフの『G・Kジューコフ評伝ノート』にも、このエピソード対す一切記録がないため、話の信憑性不明である[要出典]。 実際にジューコフ戦った日本軍主力部隊である第23師団は、新設され特設師団精鋭とは言い難く、この新設師団100日以上も優勢なソ連軍とわたりあったのは日本軍側でも驚きをもって見られている。一方でソ連軍側の主力となった57狙撃師団、第82狙撃師団カテゴリーIII分類される二線級師団であり、基幹要員充足率25%未満だった。中でも82狙撃師団30%は二週間ほどの訓練投入され新兵占められ素人同然師団指揮しながら勝利を収めたジューコフの手腕は対フィンランド冬戦争時の醜態比較され高く評価された[要出典]。 勝敗認識については、単なる史実研究超え現代における国家名誉に関わりかねない神経質な論点含んでいる。こういった「歴史見直し」の動きに対してソビエト崩壊後は比較容認態度にあったが、再び「強いロシア」を標榜するようになったロシア神経尖らせており「正義戦い勝利した解放者ソ連」という従来歴史認識堅持ようとしているとの批評がある。2009年8月6日ウランバートル開かれたノモンハン事件70周年」の記念行事出席したドミートリー・メドヴェージェフ大統領は「この勝利本質変えるような捏造容認しない」と演説した

※この「ロシアの歴史認識・評価」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「ロシアの歴史認識・評価」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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