ロシアの東征方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
「シベリアの河川交通、巡回徴貢(ポリュージエ)」も参照 ストロガノフ家やイェルマークに見られるように、ロシアの東征は、国家事業というより、まずは私的な利益を求めたものであった。 狩猟業者や、コサックあるいは銃兵(ストレリツィ)らの小部隊(ヴァタガ)が川岸に冬営地を作り、それを砦や要塞(オストログ)にする。そののち現地民に、毛皮などの税を納めるよう要求し、ロシアから農民や手工業者や商人が移住してくる。その既成事実のもとロシア政府が要塞を承認し、軍政官(ヴォイヴォダ)が乗り込んでくる、という形を取った。シベリア東進は、オビ川やエニセイ川、レナ川などの大河とその支流を使って移動することで、急速に進んだ。支流どうしが離れているときには、船を川から引きあげて担いで連水陸路を歩き、次の水路に移動した。1639年には、ロシア人はオホーツク海に到達した。 17世紀ロシアのシベリア進出は、南部の森林ステップではなく、北のタイガを通って進んだ。森林ステップでは、つねに遊牧民が襲撃してくる恐れがあったからである。 ただ、エニセイ川から東には農作に適する土地がほとんど存在せず、唯一の例外であるスタノヴォイ山脈からアムール川に広がるザバイカル地方は名目上、清の統治下にあった。 1643年にロシア人探検家がスタノヴォイ山脈を渡った。当時、ザバイカルにはゼヤ川流域にダウール族が9,000人、下流にダッチャー族(英語版)14,000人、また河口付近にエヴェンキ族やニヴフ族数千が居住していた。また、イヴァン・モスクヴィチンとマクシム・ペルフィレブが1640年にザバイカルを発見したとされている。 1659年から1660年にかけて、この地域はロシア領となり、直ちにロシア人が入植した。
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