リアエンジン車への再認識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 04:23 UTC 版)
「リアエンジン」の記事における「リアエンジン車への再認識」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ツェンダップのための試作車ポルシェ・タイプ12 タトラ・T77のドライブトレイン メルセデス・ベンツ 170H フォルクスワーゲン・ビートル フォルクスワーゲン・タイプ1のシャーシとボディー FR方式は構造や操縦安定性の面で無理のないシステムではあったが、1910年代以降の自動車の発達過程で、プロペラシャフトの重量や低床化の妨げとなるフロアトンネルのスペース、振動とそれによる騒音は顕著な問題として表面化してきた。また自動車の大衆化に伴う小型・軽量化と低コスト化の必要性から、効率の良いパッケージングの追求が模索され、ここから第一次世界大戦後、プロペラシャフトを廃した自動車を開発する機運が生まれる。フロントエンジン・フロントドライブ方式(FF、前輪駆動)やミッドシップエンジン・リアドライブ方式 (MR) の研究が始まったのもこの頃であるが、同様に「エンジン至近の車輪を駆動する方式」として、リアエンジン方式も再認識されるようになる。 当時、自動車シャシの改良により、独立懸架機構であるスイングアクスル式サスペンションが実用化され、これを利用してトランスミッションとディファレンシャル・ギアを一体化したユニット構造の「トランスアクスル」が案出された結果、従来の固定車軸車よりも低重心のリアエンジン車の設計が可能となった。前輪駆動で必須とされる、旋回時の駆動力をスムーズに伝えることのできる「等速ジョイント機構」が実用水準に至っていなかった当時、プロペラシャフトの省略を目指した技術者の多くは、より障壁の低かったリアエンジン方式での自動車開発を進めた。 同様に後輪を駆動し、トランスアクスルを用いるミドシップ方式よりも、実用車で重要である客室容積を格段に広く取れ、エンジンアクセスにも優れる面が、リアエンジンの大きなメリットであった。当時のミドシップ方式は、エンジンサイズの制約ゆえにホイールベース間のスペース消費を避けられず、整備性にも問題を抱えていた(これらのミドシップの課題は21世紀初頭でも完璧な解決には至っていない)。 近代型リアエンジン車のシャシレイアウトを最初に具体的な設計として示したのは、ウィーン工科大学の一学生に過ぎなかったベラ・バレニー (Béla Barényi 1907 - 1997)である。まだ20歳にもなっていなかったこの若者は後年自動車設計者として大成するが、1925年時点で大学での研究テーマとして、空冷水平対向4気筒エンジンをリアオーバーハングに搭載し、トランスアクスルおよびバックボーンフレームと組み合わせた4輪独立懸架の合理的な乗用車シャーシを着想し、才能の萌芽をうかがわせていた。ただし、この時代のバレニーはまだ実車を製造するまでには至っていない。 同時代には流線形ボディの研究も進展し、ツェッペリン社出身の元・航空技術者パウル・ヤーライ(Paul Jaray 1889年 - 1974年)によって1920年代前半に考案された「ヤーライ流線形」が、フロントエンジン車のシャシを利用しての顕著な実験結果により、空気抵抗を減少させて性能を高めるという第二次世界大戦以前の古典的流線型乗用車のコンセプトの基本となった(もっともそれが一般化するのは1930年代中期以降である)。 前端を丸め、後端に長く尾を引いたヤーライ流線形は、リア・オーバーハングにエンジンを搭載するのにも適していた。1920年代後半以降、これを具現化しようとする企画がドイツやチェコスロバキアなどで立ちあがってくる。 1931年から翌1932年にかけてフェルディナント・ポルシェの設計になるツェンダップのためのリアエンジン試作車「タイプ12」が3台製作され、これ以降、ドイツとチェコスロバキアでリアエンジン方式の量産乗用車が出現する。その嚆矢はタトラの主任技師であるハンス・レドヴィンカ (Hans Ledwinka) による1934年の「T77」であろう。そして1936年にはメルセデス・ベンツの「170H」(W28)、1938年にはKdFヴァーゲン、のちのいわゆる「フォルクスワーゲン・タイプ1」が発表される。MB 170Hは若干市販されたものの増加試作の域を出ず、VWの本格量産は第二次世界大戦の終わった1945年からとなる。なお、フォルクスワーゲンでは民生用に先駆け、kdfヴァーゲンを軍用車両に設計変更したキューベルワーゲンとシュビムワーゲンを量産している。 自動車史上「ポスト・ヴィンテージ期」と呼ばれるこの時代に出現したリアエンジン車は、バックボーンフレーム構造などで合理化されたシャシに、機能的な流線形ボディと、四輪独立懸架を携え、むしろ更に未来のモダン・エイジを象徴する存在であった。ベテラン期の原始的リアエンジン車とは完全に断絶した「新しい自動車」だったのである。
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