マルキーズ諸島
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「ポール・ゴーギャン」の記事における「マルキーズ諸島」の解説
ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた。しかし、実際のマルキーズ諸島は、太平洋の島々の中でも最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々であり、18世紀には8万人いたという人口は当時4000人にまで落ち込んでいた。またタヒチと同様西欧化され、既に独自の文化を失っていた。 ゴーギャンは1901年9月16日、ヒバ・オア島に着き、マルキーズ諸島の政庁があるアトゥオナに住み始めた。アトゥオナはパペーテよりは開発が遅れていたが、汽船の定期便があった。医師はいたが翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のグエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった。ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った。 ゴーギャンはこの土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた。初めの頃、この家にはポルノ写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンはその上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり、カトリックのミッション・スクール制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した。 ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を妻とした。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日看護してやらなければならず、重荷であった。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選んだ。 1901年11月までに新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている。タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作している。 1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像では眼鏡をかけている。 『扇を持った若い女』1902年。フォルクヴァンク美術館。 『未開の物語』1902年。フォルクヴァンク美術館。 『赤いケープをまとったマルキーズの男』1902年。リエージュ近代美術館。 『自画像』1903年。バーゼル市立美術館。 1902年7月、妊娠中だったヴァエホがゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる故郷の隣村で子供を産もうと帰ってしまった。ヴァエホは9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンはその後、新たな妻を迎えなかった。ちょうどこの時期に、マルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していた。 12月には、病状の悪化によりほとんど絵の制作ができなくなった。最期を悟ったゴーギャンは『前語録』(Avant et après)と題する自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させた。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録『過去と未来』への敬意が含まれていると考えられる。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものである。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれている。 1903年初頭、ゴーギャンは島駐在の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。しかし、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日に罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝に急死した。 『海辺の騎手たち』1902年。個人コレクション。 『豚と馬のいる風景』1903年。アテネウム美術館(ヘルシンキ)。 『異国の鳥のある静物』1902年。プーシキン美術館。
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