マリア文化の成長とは? わかりやすく解説

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マリア文化の成長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:11 UTC 版)

マリア崇敬」の記事における「マリア文化の成長」の解説

中世初期マリア崇敬修道会において際立って見ることができ、特にベネディクト系列の会が突出していた。アヴェ・マリス・ステラサルヴェ・レジーナなどの聖歌登場し修道院の単旋律聖歌中心となった8世紀になると、「聖母マリアの小聖務日課」(en:Little Office of Our Lady)などが、修道士らの時課における祈祷から発展していった。 フランク王国王朝は、マリア記念日祝ったり、マリア栄光を讃えて捧げる教会設立してマリア崇敬奨励したロマネスク建築見られる主なカトリック教会マリア奉献され教会建造物は、ドイツシュパイアー大聖堂ベルギートゥルネー大聖堂などが挙げられる1000年からは、さらに多く教会建てられるようになり、ヨーロッパでは、巨大な司教座大聖堂マリア奉献して建設された。ノートル・ド・パリ大聖堂同様にパリ近郊にあるシャルトル大聖堂のようなゴシック建築司教座聖堂当時建造物傑作である。イタリアシエナ大聖堂ルクセンブルクノートルダム大聖堂(en:Notre-Dame Cathedral, Luxembourg)のような建築物カトリックマリア教会増えて行った12世紀13世紀には、西ヨーロッパにおいてマリア崇敬が驚くほどの成長遂げて行った。これは一つクレルヴォーのベルナルドゥスのような神学者影響受けた部分見られる。この傾向パリノートルダム大聖堂フランス司教座聖堂バイユー大聖堂が、マリア奉献され建てられたことに顕著に現れている。 このように12世紀から13世紀掛けてマリア崇敬高まり、「聖母マリアへの祈り」が普及するようになった。この普及にはシトー会が関わっているといわれ、例として1202年には信徒修道士暗記しておくべき祈りマリアへのそれを加えたことが挙げられている。またマリアへの祈りのルミナチオも唱えられるうになる修道院私的に唱えられていた詩編唱に影響与えるなどした。 ウォルシンガムの聖母出現地やその他、マリア出現したとされる箇所には、そこへ人々巡礼するようになり、その数は大きく増えて行った11世紀12世紀には、マリアへの巡礼者の数が最高潮達し,何百もの人々がその数をほぼ絶やさずに、マリア大聖堂から他のマリア大聖堂へと旅する状況だった。 14世紀では、マリア憐れみ深い仲裁者、人類保護者として大きな人気を得るようになったペストのような疫病大流行している間、マリア助けはまさに神の裁きから庇ってくれるかのように思われた。ルネサンス文化マリア崇敬による芸術劇的な成長証言するのである16世紀起きた宗教改革運動によって、ヨーロッパ各地キリスト教派の対立発生した政治社会的に分裂した神聖ローマ帝国では1555年アウクスブルク宗教平和に事態の収拾図られるとともに領邦教会制として各領邦カトリックルター派公認宗派とした。これは領民の生活にも影響及ぼし領民宗教生活統制強化された。プロテスタントによる宗教改革が、ヨーロッパにおけるマリア崇敬反す勢力となる一方同時にグアダルーペの聖母など新しマリア信心ラテンアメリカ始まった。ここに出現したマリアへの巡礼は現在も続いており、出現地であるテペヤクの丘(英語版)に建てられマリア奉献され大聖堂グアダルーペ寺院世界でもっとも来場者数の多いカトリック教会の大聖堂として残っている。17世紀と18世紀において聖人たちの著作は、ローマ教皇による激励文に結びつけられた。聖母への信心に関するものが増えて行き、それらの中で新しマリア対す教理が定義、発表された。 19世紀フランスではマリア出現報告多発し巡礼盛んに行われたが、ローマで行われた典礼聖体重視する宗教運動とともに、リグオーリの神学フランス浸透した結果民間でのマリア崇敬高まっていたことが背景にある。例え1820年以降に「ノートルダム」、「無原罪の御宿り」などマリアの名を冠する女子修道会400以上設立されている。また、1840年から50年にかけて生まれた女の子の名前は31パーセントが「マリ」だった。 フランスでマリア崇敬高まり背景として、フランス司教たちは1840年フランス大司教中心となり、ローマ教皇グレゴリウス16世に「無原罪宿り」を教皇座によって正規信仰として定義するように要求した。「無原罪宿り」とはマリアの母アンナ妊娠してマリア胎児としてこの世現れたときから、マリア将来産むことになるイエス・キリスト功徳によってマリア汚れのない存在になっているという主張である。その後イエズス会中心に要求継続されピウス9世無原罪宿り教理化を世界司教座投票で問うた。賛成546票、反対57票という大差によって「無原罪宿り」は1854年正式に教理化された。これに対してプロテスタント聖書基づかない教理であるとして反対の意を表明し批判した

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