マリア文化の成長
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中世の初期、マリア崇敬は修道会において際立って見ることができ、特にベネディクト系列の会が突出していた。アヴェ・マリス・ステラやサルヴェ・レジーナなどの聖歌が登場し、修道院の単旋律聖歌の中心となった。8世紀になると、「聖母マリアの小聖務日課」(en:Little Office of Our Lady)などが、修道士らの時課における祈祷から発展していった。 フランク王国の王朝は、マリアの記念日を祝ったり、マリアの栄光を讃えて捧げる教会を設立してマリア崇敬を奨励した。 ロマネスク建築に見られる主なカトリック教会でマリアに奉献された教会建造物は、ドイツのシュパイアー大聖堂、ベルギーのトゥルネーの大聖堂などが挙げられる。1000年からは、さらに多くの教会が建てられるようになり、ヨーロッパでは、巨大な司教座大聖堂がマリアに奉献して建設された。ノートル・ド・パリ大聖堂、同様にパリの近郊にあるシャルトル大聖堂のようなゴシック建築の司教座聖堂は当時の建造物の傑作である。イタリアのシエナ大聖堂やルクセンブルクのノートルダム大聖堂(en:Notre-Dame Cathedral, Luxembourg)のような建築物がカトリックのマリア系教会に増えて行った。 12世紀と13世紀には、西ヨーロッパにおいてマリア崇敬が驚くほどの成長を遂げて行った。これは一つにクレルヴォーのベルナルドゥスのような神学者の影響を受けた部分が見られる。この傾向はパリのノートルダム大聖堂やフランスの司教座聖堂やバイユー大聖堂が、マリアに奉献されて建てられたことに顕著に現れている。 このように、12世紀から13世紀に掛けてマリア崇敬は高まり、「聖母マリアへの祈り」が普及するようになった。この普及にはシトー会が関わっているといわれ、例として1202年には信徒修道士が暗記しておくべき祈りにマリアへのそれを加えたことが挙げられている。またマリアへの祈りのルミナチオも唱えられるようになる、修道院で私的に唱えられていた詩編唱に影響を与えるなどした。 ウォルシンガムの聖母の出現地やその他、マリアが出現したとされる箇所には、そこへ人々が巡礼するようになり、その数は大きく増えて行った。11世紀と12世紀には、マリアへの巡礼者の数が最高潮に達し,何百もの人々がその数をほぼ絶やさずに、マリア大聖堂から他のマリア大聖堂へと旅する状況だった。 14世紀では、マリアは憐れみ深い仲裁者、人類の保護者として大きな人気を得るようになった。ペストのような疫病が大流行している間、マリアの助けはまさに神の裁きから庇ってくれるかのように思われた。ルネサンス文化はマリア崇敬による芸術の劇的な成長を証言するものである。 16世紀に起きた宗教改革運動によって、ヨーロッパ各地でキリスト教派の対立が発生した。政治、社会的に分裂した神聖ローマ帝国では1555年アウクスブルクの宗教平和にて事態の収拾が図られるとともに、領邦教会制として各領邦はカトリックかルター派を公認宗派とした。これは領民の生活にも影響を及ぼし、領民の宗教生活の統制が強化された。プロテスタントによる宗教改革が、ヨーロッパにおけるマリア崇敬に反する勢力となる一方、同時にグアダルーペの聖母など新しいマリアの信心がラテンアメリカで始まった。ここに出現したマリアへの巡礼は現在も続いており、出現地であるテペヤクの丘(英語版)に建てられたマリアへ奉献された大聖堂・グアダルーペ寺院は世界でもっとも来場者数の多いカトリック教会の大聖堂として残っている。17世紀と18世紀において聖人たちの著作は、ローマ教皇による激励文に結びつけられた。聖母への信心に関するものが増えて行き、それらの中で新しいマリアに対する教理が定義、発表された。 19世紀のフランスではマリアの出現報告が多発し、巡礼が盛んに行われたが、ローマで行われた典礼と聖体を重視する宗教運動とともに、リグオーリの神学がフランスに浸透した結果、民間でのマリア崇敬が高まっていたことが背景にある。例えば1820年以降に「ノートルダム」、「無原罪の御宿り」などマリアの名を冠する女子修道会が400以上設立されている。また、1840年から50年にかけて生まれた女の子の名前は31パーセントが「マリ」だった。 フランスでのマリア崇敬の高まりを背景として、フランスの司教たちは1840年にフランス大司教が中心となり、ローマ教皇グレゴリウス16世に「無原罪の宿り」を教皇座によって正規の信仰として定義するように要求した。「無原罪の宿り」とはマリアの母アンナが妊娠してマリアが胎児としてこの世に現れたときから、マリアが将来産むことになるイエス・キリストの功徳によってマリアが汚れのない存在になっているという主張である。その後もイエズス会を中心に要求は継続され、ピウス9世は無原罪の宿りの教理化を世界の司教座に投票で問うた。賛成546票、反対57票という大差によって「無原罪の宿り」は1854年に正式に教理化された。これに対してプロテスタントは聖書に基づかない教理であるとして反対の意を表明し、批判した。
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