ブーム形成の要因・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:35 UTC 版)
「ハイセイコー」の記事における「ブーム形成の要因・背景」の解説
前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた。このことについて日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている。ライターのかなざわいっせいは、オグリキャップの中央競馬移籍が決まった際のメディアの報道の仕方について、ハイセイコーのそれと比較すると「東京湾でハゼが3匹釣れた程度のニュースでしかなかった」と述べている。 当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している。読売新聞記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、高度経済成長期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている。渡辺敬一郎は「思えばハイセイコーが走った時代は、日本の高度経済成長期であり、地方から都会に出てきた人々が、人気に火をつけ、それがあっという間に老若男女、年齢を問わない超人気アイドルになっていったのだ」と述べている。 前述のように誕生した年の夏には生産した武田牧場場長の武田隆雄から「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と喧伝され、地方でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった。江面弘也によると、前述のように(株)王優への売却に際して武田牧場は大井でデビューさせた後中央へ移籍させるという条件を付けていたといい、さらに2代目の馬主であるホースマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央へ移籍した時点で既に将来種牡馬となることが想定されていたという。 ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では田中角栄が第64代内閣総理大臣に就任した。朝日新聞be編集グループは、田中角栄が世間の注目を集めていたことがハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べており、和田久も「田中角栄の生い立ちにハイセイコーを擬した論法もあった」と述べている。日本経済新聞記者の野元賢一は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している。 一方で、山野浩一はハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、その活躍が地方出身で「雑草育ち」の馬が中央のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している。父のチャイナロックはハイセイコーの登場以前にメジロタイヨウ、タケシバオー、アカネテンリュウと三頭の八大競走勝ち馬を輩出し、ハイセイコーが中央へ移籍した1973年にはリーディングサイアーとなる好成績を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝を挙げていた。阿部珠樹は「野武士どころか上級の血統馬であり、最初から中央にいれば、クラシック候補と騒がれたかもしれない血統背景を持っていた」と述べ、関口隆哉は、「ハイセイコーが生まれた70年当時の感覚としては、モダンな血筋を受け継いだ、血統的な期待も大きい馬だったことは間違いない」と述べている。 赤木駿介は、マスコミがプロ野球の読売ジャイアンツとON砲(王貞治・長嶋茂雄)に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている。島田明宏は、ハイセイコーは長嶋茂雄と1973年5月に週刊少年マガジンにおける連載が完結した「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈に代わる「時代が求めた正統派のヒーローだった」と評している。ハイセイコーは野球選手の江川卓、プロゴルファーのジャンボ尾崎の両名と共に「怪物」として並び称され、「江川尾崎にハイセイコー」というキャッチコピーも流れた。 横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年はオイルショックが起こりインフレーションに見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している。歴史学者の本村凌二(雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している。 東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」、「落ちた偶像」、「"敗"セイコー」などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している。広見直樹は東京優駿以降のハイセイコーについて、「挑戦者としてライバル(タケホープ)に一矢報いる戦いが始まった」、「畏怖の念すら感じさせたヒーローが、身近で守ってあげたくなる存在として帰ってきた」と表現し、同時にファンも「アイドルを迎えるように温かい眼差しで応援することにした」のだと述べている。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直した後、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している。石川喬司は、挫折を経てなお走り続けるハイセイコーの姿から、ファンは「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」のだと述べている。阿部珠樹は、ハイセイコーが宝塚記念と高松宮杯を連勝した頃には「もうハイセイコーの勝敗は、ファンにとって、あまり問題ではなくなってきていた」と述べている。
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