パターソンとピールの時代(1844年–1853年)
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「ジェイムズ・ロングエーカー」の記事における「パターソンとピールの時代(1844年–1853年)」の解説
ロングエーカーの彫師主任としての初期数年間は、貨幣の新しいデザインが求められることは無かった。ゴブレヒトは1835年から1842年の間に、各額面の貨幣を再度デザインし直しており、ロングエーカーは印刷用版の制作者としては必要でなかった貨幣制作に必要な技術を学ぶための時間を持てた。これらの技術には、貨幣のデザイン、デザイン要素のための抜型制作、および金型の制作があった。民間会社にいたときのロングエーカーの仕事は、印刷に使われる銅板に線画を彫りいれることだった。1845年8月、パターソンは財務長官のロバート・ウォーカーに手紙を書き、ロングエーカーは「素晴らしい性格の紳士であり、この社会では高く評価されている。銅の彫師として名声を幾らか得ているが、彼は金型の制作者ではない。実際に、彼が型を作ろうと試みたのか、私は知らない。」と記していた。その年の12月に、パターソンはウォーカーに宛てて、ロングエーカーは「その前任者達が示したよりも、ここでの貨幣鋳造改良のために工夫することで、より味のある判断をしている。彼の描いた絵から必要なモデルを作るために極めて有能であることも示してきた」と述べて、ロングエーカーを称賛していた。タクセイは、パターソンがロングエーカーを褒めちぎっていることは、レナードが彫師主任の職を得る試みを続けていたことの結果だとしている。 ロングエーカーの居た時代の造幣局で製作された初期貨幣には多くの失敗を見て取れるが、このような誤りを誰のせいとすべきかは明らかでない。1844年にニューオーリンズ造幣所で打たれた半ドル硬貨は日付が2つある。1846年半ドル貨幣は識別記号が6桁あるが、1つは水平に打たれている。ボワーズは、ロングエーカーがそのような作業をさせた可能性があるとしているが、1849年にロングエーカーの日々の作業は作業用型に日付を打つことだと記していた。トム・デロリーは2003年のロングエーカーに関する記事の中で、ピールとそのスタッフが彫師の部署(ロングエーカーがその長)に相談することなくパンチさせることが多かったとしており、貨幣鋳造主任の責任だった可能性が強いと考えている。 フィラデルフィア造幣所の緊張した雰囲気にも拘わらず、ロングエーカーは1849年3月まで、パターソンやピールとの摩擦を避けていた。このとき、連邦議会が1ドル金貨とダブルイーグル、すなわち20ドル金貨を新しく製作することを承認した。この時までにパターソンは、ロングエーカーがピールのメダル事業の脅威になると考えたので、ロングエーカーの解任を望むようになっており、彫師主任の技術を必要とする新貨幣に反対した。リチャード・スノーは、「飛ぶ鷲」とインディアンの顔・1セント貨に関するその著書で、「倫理的な彫師主任が彼らのサイドビジネスの脅威になった」としていた。コンタミン・ポートレート旋盤の利用について紛争が持ち上がった。この旋盤はロングエーカーが新しい貨幣を作るためにも必要であり、ピールのメダル事業にも必要だった。ロングエーカーが、ピールはこの装置を独占していると苦情を言うと、ピールはロングエーカーの貨幣制作作業を妨害することとし、ロングエーカーをその職から外させることに決めた。 1849年初期、ロングエーカーが後に書いた手紙に拠れば、造幣局のスタッフの1人がロングエーカーに接近して、別の役人(すなわちピール)が彫りの作業を造幣局の外に注文することでロングエーカーの仕事を無くそうとしいていると警告した。その彫りの外注先とはフランス人のルイ・ブーベーであり、パターソンがハーフイーグルのデザインを準備させたが、採用はされなかった。この情報に対するロングエーカーの反応は1849年3月の大半の時間を使って、金貨の型を準備することであり、ロングエーカーが後に述べているようにその健康にも災いした。パターソンには助手を雇用してくれるよう要求したが、パターソンは作業を外注することのみを進んでやっただけだった。ロングエーカーは、造幣局外で行われる作業を監督できないので、これには満足できなかった。造幣局の中で彫師助手のピーター・フィラトルー・クロスの協力を得て、金貨裏面の作業を行わせた。1849年後半にはダブルイーグルのための作業に進行しており、ピールが仕掛けた障害を次の様に表現していた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私のために選ばれた操作の計画は、私のモデルから作られた「電気版モールド」を銅で持つことであり、鉄で鋳られたパターンで機能するものだった。この目的のためにガルバニ電池の操作は貨幣鋳造主任の部屋で行われた。ガルバニ電池の操作が失敗し、私のモデルはその操作で壊された。しかし、私は石膏で鋳型を作るという注意を払っていた…唯一の代替物としてのこの鋳型から、金属製の型を作り出したが、完全ではなかった。しかし型の彫り面にある不完全さを矯正することはできるはずだと考えた。それは負荷のある仕事だが、時間をかければ完成するし、すべて私の手でやることができた。型は鋳造部で硬化させる必要があり、不幸にも工程が分かれていた。 ロングエーカーがダブルイーグルの型を完成させたとき、それはピールによって拒否された。ピールはそのデザインがあまりに深く彫られており、貨幣に打ち込むことができない、貨幣を適切に積み上げることができないと述べた。しかし、タクセイは、1849年のダブルイーグルで残っているものにそのような問題は見られないと述べ、外観からも積み上げられるレベルにあるとしている。ピールはパターソンに苦情を言い、パターソンは財務長官のウィリアム・メレディスに1849年12月25日付けの手紙を書き、適切な型を作れないという根拠でロングエーカーの解任を要求した。パターソンはその日に彫師のチャールズ・クッシング・ライトにその地位を約束し、ロングエーカーが罷免されたときに有効になるとしていた。メレディスは、有能な後任が見つけられるかを問うた。パターソンは一人見つけられると保証した。ロングエーカーは、ピールが改良されたダブルイーグルの型の受容を遅らせているとパターソンに抗議し、パターソンは文書で回答しなかったが、ロングエーカーに会って、管理部はロングエーカーを解任することに決めており、辞表を遅滞なく提出するよう伝えた。ロングエーカーはこの事態を検討したうえで、言われた通りにはせず、その代わりに1850年2月12日にワシントンに行って、メレディスに会った。ロングエーカーはメレディスが多くの事情について嘘を言っていることが分かった。スノーに拠れば、ロングエーカーは報復を求めず、平和裏にその作業を続けることを認められただけで満足した。ダブルイーグルの製作は1850年3月に始まった。ただしパターソンは貨幣のできが悪いことに苦情を言った。このダブルイーグルはすぐに金を貯めて置くための好まれる手段となり、その後の時代では、他の貨幣を合わせたよりも多くの金がダブルイーグルに打たれた。 1850年4月1日、パターソンは再度手紙でロングエーカーの罷免を要請した。このときはザカリー・テイラー大統領がロングエーカーの解任を決めたとしていた。この試みにも拘わらず、ロングエーカーはその地位に留まっていた。1850年にはまた、ロングエーカーの妻エリザベス(通常エリザと呼んでいた)が死んだ。この造幣局の役人たちは1851年にも再度衝突した。連邦議会が3セント銀貨の製作を承認した後のことだった。ロングエーカーは片面に星、片面にローマ数字のIIIをあしらったデザインを用意し、当初はパターソンの承認を得た。しかしピールはパターソンを説得して心変わりさせ、ピールが自らデザインしたものを認めさせた。それは1836年にゴブレヒトが使った要素を写したものだった。この問題は新任財務長官トマス・コーウィンのもとに提出され、コーウィンはロングエーカーのデザインを選んだ。ロングエーカーはあらかじめ自分のイメージを説明する手紙を長官に送るという気配りをしていた。 1851年7月、パターソンが引退し、ミラード・フィルモア大統領は後任にジョージ・エッカートを指名した。ピールの前任者で退職後もその任務を続けていたアダム・エックフェルトが1852年に死に、ピールのメダル事業は逆境になった。1854年、ピールが造幣局の職員を私的な利益のために使っていたことが公にされた後、造幣局支配人ジェイムズ・ロス・スノーデンがピールを解雇した。それでもその解雇はマスコミの注意を呼び、アメリカ合衆国上院が調査し、さらにピールからは多額の賠償要求があった。ロングエーカーの敵が全て去り、造幣局での生活が改善された。
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