トレーニングと打撃理論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:04 UTC 版)
現役時代は武道を取り入れたトレーニングを実践し、その求道的なスタイルも相まって数々の逸話を残した。プロ5年目の1959年シーズンオフ以降、荒川博らとともに藤平光一や剣道家の羽賀準一の道場に通って合気道や居合を習得し、打撃に取り入れて首位打者を獲得している。そのためかトレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。試合前に座禅を組むこともあった。また、自宅の庭に専用の打撃練習場を造ったことでも知られる。 荒川博は1959年オフの頃の榎本について、「榎本は毎日私の家に来てバットを振り、私の合気道の修行にもついてきて、道場の隅に正座して見学するという、ハードなプロ野球選手の道を歩んでいた」、「そのうち、榎本は私の家に数ヶ月も泊り込み、出掛けるときには私のオートバイの後ろに乗ってついてくるという状態で、バッティングの極意を目指して、猛訓練を積み重ねるようになった。試合が終わってから、私と一緒に帰ってきて、私が『もうよい』と言うまで、何百回もバットの素振りをし、姿勢・間の取り方・足腰の位置などを徹底的に研究する毎日だった」と述懐している。 若手の頃の話に、「荒川博の自宅の庭で榎本が昼間から素振りをしていた。そのうち、荒川はそれを忘れてしまい、深夜に思い出して庭を見てみると榎本はまだバットを振っていた」というものがある。荒川は榎本について「まことに生真面目な男で、求道心のかたまりのようなところがある」と評しており、「王(貞治)の10倍、ばか真面目だった。大晦日も正月もうちに練習に来た」と語っている。榎本は試合後に自宅の畳の部屋で何時間も素振りを繰り返し、時には真剣を振って鍛錬していたという。 荒川から学んだ合気道打法について、後年に榎本は「バッターボックスの中にお城を構えているのと同じことなんです。私の体の前、ピッチャー方向に外堀と内堀があって、その間でボールを処理すると、バットは速い球にも負けないんですよ。外堀と内堀の幅は合わせて30〜40cmぐらいでしょう」と解説しており、「入団して数年、2割6、7分が続いて、どうしても3割バッターになりたかったんです。早々と3割バッターなんかになればすぐ死んじゃうでしょうにね。だけど子どもだったから、どうしても3割を打ちたかったんです。死にものぐるいでバットを振っているうちに、内堀と外堀のことがわかってきました」と振り返っている。また、入団以来データや相手投手についてのメモ・日記などは一切つけなかったという。 榎本の打撃フォームの調整方法は、新人時代から特異であり、荒川から教わった精神論である「バットを手で振るな、体で振るな、心で振れ」というイメージを忠実に実行し、フォーム調整では素振りをすること自体少なかったとされる。そのため、試合前にバットを1度も振らないまま試合に臨むこともしばしばあった。榎本の試合前の調整方法に関する逸話として、大鏡の前でバットを構えたまま微動だにせず、30分程経過したところでようやく構えを解き、満足気な表情で「いい練習ができた」と言ったというものがある。後年、榎本本人が語ったところによれば、構えたバットの先端が右目の視界の端にちらつく状態がバッティングにおける理想型であり、その微調整をしていたという。更に榎本は「要はボールを最短距離でミート出来る位置にバットのヘッドがあるかどうかが重要なのであって、それを確認するのにスイングする必要は無い」と解説している。 取材を行っていた近藤唯之によると、前述したフォーム調整の練習中、榎本は近藤に「ぼんやり構えていたら体が死にます。頭の中で飛んでくるボールを描きます。すると両腕の中の血がじんじんとバットに流れこむんです。だからバットを折ったら中から血が流れ出すんです」 と語ったという。 現役時代、榎本は打撃について、「体(たい)が生きて、間(ま)が合えば、必ずヒットになる」とよく呟いていた。4打数3安打でも、自分が納得できる完璧な打球でなければ「4の1か」と落ち込み、4打数ノーヒットでも納得がいけば「4の4だ」と喜んだ。テキサス安打(ポテンヒット)やボールが転がってゴロで外野へ抜けた安打では納得しなかった。榎本のチームメイトであった醍醐猛夫は、「ボテボテでも、テキサスでも、4打数4安打なら誰でも喜びますよね。ビールでも飲んでツキを祝うんだけど、榎本さんは違うんですね。部屋の中でグリップを握って、じっと考え込んでいるんですよ。『どうして打てなかったんだろう』と言って。打てないと言っても4の4なんですよ」と語っている。 1959年のオフ以降、臍下丹田(せいかたんでん)に気持ちを鎮め、そこを体の中心として指先や足先などの体の隅々までを臍下丹田と結び(五体を結び)、連結させるというトレーニング方法を実践するようになる。同トレーニングをすることで、榎本は体の隅々が意識されて、自分の臓器の位置までがわかったという。これらによって効率的な体の使い方ができるようになり、「以前の自分は無駄な力が入りすぎていた」ことや、「バットを振り回すのではなく、バット自身の重さで下に落ちる力をも利用する」ことに気がつき、打撃への理解を深めた。 1961年のインタビューで、榎本は「毎日が勝つか負けるかの激しいプロの世界です。敗者、勝者の無常観は、ある時期の僕の思考力をめちゃくちゃにしました。だから、その無常観に悩まされる心の安定を僕は合気道に求めました。合気道は武道としてより、精神修養の道として、僕は求めたのです」とコメントした。インタビュアーはそのような榎本の印象について、「クソがつくほどの生真面目で、これが25歳の華やかなプロ野球選手とは思えない」と記している。 1966年のシーズン中、毎日新聞の記者によるインタビューにて、榎本は「『気がついたらバットを振っていた』というのが理想なんじゃないかな、と僕は思うって話ですよ。僕みたいなヘボにそんな話をする資格なんかないんだ。荒川(博)さんや川上(哲治)さんみたいな人間に聞いてください。でも、日本人で箸をどうやって使うか考える人はいないでしょう。無意識に使って、うまくご飯を食べている。打撃の究極もそこだろう……と、これは僕の考えですよ。昨年のシーズンオフに荒川さんのところで捨て身でけいこをやった。けいこは時間でなくて内容です。それで形がなおった」と語っている。 榎本の信条は「球界を代表するピッチャーの最も得意な球を完璧に打ち返す」ことだったという。フェンス直撃の当たりを打っても、「何でフェンスを越えないんだ」と塁上で首を傾げ、ずっと悩んでいた。理想としていたバッティング理論に拘り、打撃が上手くいかずにいらいらした時には、家の中でバットを持って暴れたりした。また、打撃に何か活かせないかという理由で映画を見たり、猫の動きを勉強したり、水道の蛇口から出る水を2時間ほど見つめていたりしたこともあった。スランプ時には寝ていてもうなされ、バットを見るのも嫌な時があったが、それでも命がけで「自分の体がぶっ壊れて、おっ死んでもいい」という強烈な練習を何度もしたと語っている。キャリアの峠を越し、打撃に衰えが見えていた現役最終年には、「オリオンズの榎本はもう死んだんだ」と言ったとされる。
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