デトロイト・タイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 07:57 UTC 版)
「デニー・マクレイン」の記事における「デトロイト・タイガース」の解説
1962年に地元のシカゴ・ホワイトソックスと契約。マイナーリーグの初登板でノーヒッターを達成する。ウェーバーにかけられ、1963年4月8日にデトロイト・タイガースに移籍。A級・AA級合計で18勝6敗・防御率2.89・239奪三振を記録し、9月21日のホワイトソックス戦でメジャーデビュー、自責点1で完投勝利を挙げる。1965年は6月12日から7月25日にかけて2試合連続完封を含む8連勝を記録。16勝6敗・防御率2.61・192奪三振を記録。1966年は前半戦で13勝を挙げ、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、3回を無安打に抑えた。後半戦で7勝10敗・防御率4.98と調子を落とし、自身初の20勝を記録したものの42被本塁打・120失点はリーグワーストだった。1967年は8月終了時で17勝を挙げるが9月は未勝利に終わり、チームも1ゲーム差でリーグ優勝を逃した。 1968年は前半戦で16勝2敗・防御率2.09を記録し、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。後半戦も勢いは衰えず、9月14日のオークランド・アスレティックス戦で1934年のディジー・ディーン以来34年ぶりとなるシーズン30勝に到達。31勝6敗・防御率1.96・280奪三振、共にリーグ最多の28完投・336.0イニングを記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームは2位に12ゲーム差を付ける圧倒的な強さでリーグ優勝を果たす。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第1戦に先発。同年防御率1.12という驚異的な成績をマークしたボブ・ギブソンと投げ合い、17三振を奪われて完封負けを喫し敗戦投手となる。第4戦でも再び対戦したが3回途中4失点で敗戦投手となり、1勝3敗と王手をかけられる。第6戦では中2日で先発し、3回までに大量12点の援護もあって1失点完投勝利を挙げ、タイに戻す。チームは最終第7戦でギブソンを打ち崩して4勝3敗でカージナルスを破り、23年ぶりのワールドチャンピオンとなった。オフにサイ・ヤング賞とMVPを満票で受賞した。1969年も前半戦で14勝5敗を記録し、2年連続でオールスターゲームに選出され先発の予定だったが、試合途中に帰ったため批判を浴びるなど素行の悪さが球団を悩ませた。24勝9敗・防御率2.80・181奪三振、共にリーグトップの9完封・325.0イニングを記録し、2年連続の最多勝利を獲得。サイ・ヤング賞の投票ではマイク・クェイヤーと同点になり、史上初の2人同時受賞となった。
※この「デトロイト・タイガース」の解説は、「デニー・マクレイン」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース」を含む「デニー・マクレイン」の記事については、「デニー・マクレイン」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:10 UTC 版)
「ミッキー・ロリッチ」の記事における「デトロイト・タイガース」の解説
1958年6月30日にデトロイト・タイガースと契約。1963年5月12日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャーデビュー。同年は5勝9敗・防御率3.55を記録。1964年は4月24日のミネソタ・ツインズ戦でメジャー初完封。8月18日のロサンゼルス・エンゼルス戦では2回以降ノーヒットに抑えて3安打完封、9月1日のシカゴ・ホワイトソックス戦では7回1死までノーヒットに抑えて完封し、そこから3試合連続完封を記録するなど18勝9敗・防御率3.26・192奪三振・6完封の好成績を挙げる。 1965年は初の開幕投手を務め、15勝9敗・226奪三振を記録。 1966年は14勝を挙げるが14敗を喫し、防御率4.77と不本意な成績に終わる。1967年は5月23日から10連敗を喫するが、9月22日からの3試合連続完封記録するなど8・9月で9勝1敗・防御率1.31・5完封と調子を上げ、チームの優勝争いの原動力となるが、ボストン・レッドソックスに1ゲーム差で敗れた。 1968年は8月・9月で10勝を挙げて17勝9敗・防御率3.19を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第2戦に先発して1失点完投勝利を挙げ、3回にレギュラーシーズンでも打ったことのない本塁打を放った。第5戦では初回に3点を先行されるがその後立ち直って完投勝利。3勝3敗のタイで迎えた最終第7戦ではボブ・ギブソンと投げ合い、2度の牽制アウトでピンチを凌ぐなど5安打1失点で完投し、チームは23年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。3勝・防御率1.67の活躍でシリーズMVPを受賞。「まさかギブソンに勝てるとは思わなかった」と語った。 1969年は5月7日から9連勝。5月23日のエンゼルス戦、6月9日のシアトル・パイロッツ戦でキャリアハイの16奪三振を記録するなど前半戦で13勝2敗・防御率2.70・151奪三振の好成績で、自身初のオールスターゲームに選出される。後半戦は6勝に留まるが、キャリアワーストの122四球ながら19勝11敗・防御率3.14、サム・マクダウェルに次ぐリーグ2位の271奪三振を記録した。1970年は14勝・230奪三振の一方でリーグ最多の19敗を喫した。 1971年は前半戦で14勝を挙げて2年ぶりにオールスターゲームに選出され、8回から登板してロベルト・クレメンテに本塁打を浴びるもののセーブを記録した。いずれもリーグ最多の25勝・308奪三振・29完投・376.0イニング・336被安打・45先発の成績で、最多勝利・最多奪三振の二冠を獲得。しかしサイ・ヤング賞の投票ではヴァイダ・ブルーに次ぐ2位に終わった。1972年は前半戦17勝6敗・防御率2.39を記録し、2年連続でオールスターゲームに選出される。後半戦は5勝に留まるが、22勝14敗・防御率2.50・250奪三振の成績でチームの地区優勝に貢献。オークランド・アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが敗戦投手。第4戦では9回を1失点に抑えるも勝敗は付かず、チームは2勝3敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票ではゲイロード・ペリー、ウィルバー・ウッドに次ぐ3位。 1973年は16勝15敗の成績。1974年は開幕から4連敗。その後は連勝と連敗を繰り返し、リーグワーストの21敗・142自責点・38被本塁打と不本意だった。 1975年は後半戦で2勝12敗と不振で12勝18敗に終わり、連続200奪三振も6年で途切れた。12月12日にラスティ・スタウブ他1選手との交換トレードで、ニューヨーク・メッツに移籍。
※この「デトロイト・タイガース」の解説は、「ミッキー・ロリッチ」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース」を含む「ミッキー・ロリッチ」の記事については、「ミッキー・ロリッチ」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 08:40 UTC 版)
「ケニー・ロジャース (野球)」の記事における「デトロイト・タイガース」の解説
2006年から2年総額1600万ドルの契約でタイガースに移籍。移籍してからは若い投手のまとめ役、相談役としてリーダーシップを発揮。苦手だったメディアとも積極的につきあうようになった。6月18日に通算200勝を達成。40歳代で2度目の14勝以上を達成(MLB史上10人目)。チームは19年ぶりのリーグ優勝。 2005年までのポストシーズンの成績は0勝3敗、防御率8.85と苦手にしていたが、10月6日のヤンキースとのディビジョンシリーズ3戦を7.2イニングを無失点。 ランディ・ジョンソンとの史上初の40歳代対決に完勝し、続くオークランド・アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でも7.1イニングを無失点に抑え勝ち投手となった。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズ第2戦では8回を無失点で勝ち投手となった。チームは第5戦で敗退。ワールドチャンピオンになれなかったが、ポストシーズンで23イニング連続無失点を記録し、これを上回ったのはクリスティ・マシューソン(1905年、27回連続無失点)しかいない。 2007年シーズン終了後FAを宣言したが、代理人のスコット・ボラスを解雇し、自ら交渉し、1年800万ドルで残留。2008年5月9日に92回目の牽制で走者をアウトにし、マーク・ラングストンを抜きMLB史上最多記録となった。
※この「デトロイト・タイガース」の解説は、「ケニー・ロジャース (野球)」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース」を含む「ケニー・ロジャース (野球)」の記事については、「ケニー・ロジャース (野球)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書からデトロイト・タイガースを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- デトロイト・タイガースのページへのリンク