チャップリンとの関係とは? わかりやすく解説

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チャップリンとの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 00:55 UTC 版)

ジョーン・バリー (アメリカの女優)」の記事における「チャップリンとの関係」の解説

カリフォルニア移ったのち、マリー芸名「ジョーン・バリー」を名乗って女優活動開始する思ったように仕事来ず仕事の無いときはウェイトレスをやったり、また石油王ジャン・ポール・ゲティ愛人となってメキシコ赴いたりもした。そのメキシコ芸能プロモーターアルフレッド・C・ブルーメンタール(英語版)と出会い、ブルーメンタールはティム・デュラント宛に紹介状したためたデュラントチャップリン側近一人であり、デュラント夕食会チャップリン趣味としていたテニスパーティジョーン何度も連れて行くうち、ジョーンチャップリン過度なまでに夢中となっていった。チャップリンジョーンしつこさには驚かされたものの、間もなくジョーンを気に入るようになる当時チャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル(英語版原作の『影と実体英語版)』の映画化企図しており、作品ヒロイン求めていた。ジョーンチャップリンの前でヒロインセリフ完ぺき朗読してみせ、初め出会った時から「演技才能がある」と信じていたチャップリンは、『影と実体』の映画化権購入の上1941年6月26日ごろにジョーン1年間契約を結ぶこととなった結果論から言えばジョーンチャップリン計り知れないダメージ与えた、とんだ「ジョーカー」だったわけであるが、ジョーンヒロインとして選んだころのチャップリンはその正体見抜いた様子はなく、逆に周囲に、ジョーン自分これまで共演してきたヒロイン同格それ以上資質のある女優だと吹聴していた。さらにマックス・ラインハルト演劇学校に通わせたり矯正歯科のための金銭を自ら支出しおまけにパーティではこれ見よがしジョーンの「才能」を披露していた。チャップリンもまたジョーン夢中になっていたわけであるが、そんなさ中にジョーンチャップリン紹介したデュラント周囲の者が、先にジョーン精神疾患疑いがあることを見抜きつつあった。異変1942年春ごろに最高潮達しジョーン泥酔状態でチャップリン自邸車で乗り込んだり、チャップリン居留守決め込むと、窓をたたき割って自邸侵入するようになったさしものチャップリンジョーン異変に気づきラインハルト学校をさぼっていたことも判明、また酒がらみのトラブルには神経とがらせていたこともあって、契約1942年5月22日解消される。この時、違約金代わりとしてチャップリンジョーン作った5000ドルもの借金肩代わりし、ジョーンは母ガートルードとともに10月5日ニューヨーク帰っていった。少なくとも、チャップリンはこれらの後始末ジョーンとは完全に手切れしたと信じていた。それから2か月ほど経った12月23日チャップリンの前から姿を消したはずのジョーン執拗にチャップリン邸に電話をかけたあと、はしごを使ってチャップリン邸に侵入し拳銃振り回して自殺ほのめかしたチャップリンは金を渡してジョーン退散させたものの、ジョーン一週間後と1943年5月チャップリン前に姿を現し二度と警察のご厄介となった。ところが、1943年5月一件は少し違っていた。この時のジョーン妊娠6か月だった。この胎児が、チャップリン一大ダメージ与えることとなる。 1943年6月4日30日の刑を終えて出所したジョーンマスコミに対して、「自分妊娠しており、その胎児父親チャップリンだ」などと言いふらしたまた、ジョーン妊娠公表したのと同じ6月4日、母ガートルード胎児後見人という立場から、チャップリンに対して認知訴訟起こした一連の滅茶苦茶裁判」の始まりである。ジョーン母娘要求は、ガートルードが「出生前のジョーン世話1万ドル胎児養育費に月2500ドル訴訟費用として5000ドル」というものであり、ジョーンは「胎児ガートルードそれぞれ75000ドル」というものであったチャップリン正義感からこれらの要求突っぱねたが、裁判結果が出るまではカリフォルニア州に従って養育費などを支払うこととなった。やがて1943年10月2日ジョーン女児出産し、キャロル・アンと命名された。1944年入りチャップリン新たな裁判巻き込まれる。まず2月10日大陪審起訴されたが、容疑マン法違反容疑であり、ジョーンニューヨーク送り返したことに「不法な性的関係を結ぶ意図目的」と「犯意」があったとされたが、論拠そのもの初めからバカバカしさが指摘されていた。そのこともあって、マン法違反については無罪評決が出ることとなったマン法違反裁判のさ中にはキャロル・アンの血液検査が行われ、「O型チャップリンA型ジョーンから、B型のキャロル・アンは生まれ得ない」と結論付けられた。この血液検査ジョーン母娘起こした裁判の際に約され条件一つであり、父親チャップリンであると証明されなければ訴訟取り下げることをジョーン同意していた。しかし、この間不可解なことが起こっていた。キャロル・アンの後見が、いつの間にガートルードから裁判所移っていた。そして、血液検査自体も「関係者の間で必要があったから」ということにされた。 認知訴訟1944年12月13日から始まりジョーン側は、論理では劣るものの芝居じみた弁論をもって情緒訴えることを巧みとしたジョゼフ・スコット弁護士立てチャップリン側は地味ながら堅実なチャールズ・A・ミリカン弁護士立てたジョーン側のスコットは「老いぼれコンドル」であるとか「好色な卑劣漢」、「ヘビ野郎」などといった罵言雑言限りを尽くしチャップリンことごとく罵倒し、これに対してチャップリン激昂する一場面もあった。評決一度では決せずチャップリン仲裁拒否したこともあって1945年4月4日から17日まで再審が行われた。再審でもスコット情緒訴え作戦展開し、また血液検査結果当時カリフォルニア州証拠として扱われなかったこともあって、再審11対1の評決チャップリン有罪評決となった裁判結果、キャロル・アンは「キャロル・アン・チャップリン」と名乗ってもよいこととなり、チャップリン側はキャロル・アンが21歳になるまでの間、週75ドルから100ドル養育費支払うこととなったチャップリンが、有利な証拠持ちながら最終的に敗訴した背景としては、当時カリフォルニア州法との関係のほかにチャップリン第二次世界大戦中ソビエト連邦支援強く訴えていたことを嫌悪する反共主義者非難マッカーシズム」との関係が指摘されており、こともあろうにジョーン側の弁護士務めたスコットが、共和党熱烈な信奉者であった裁判通じてチャップリン受けたダメージ甚大であった一度新たな裁判起こそう試みるも、事件そのもの疲れ果てていたチャップリンは「一度失った評判取り返すのは不可能」であることを悟っており、最終的に裁判断念せざるを得なかった。そんな傷心チャップリン癒したのは、ジョーンとのトラブルのさ中に結婚したウーナであったウーナトラブル真っただ中にいるチャップリン支えるために常にそばにあり、ウーナとのひと時裁判忘却させる貴重な時間となったまた、裁判の中で起こった出来事のうち、公の場指紋押捺させられたことに関しては、1957年の『ニューヨークの王様』で、チャップリン扮するシャドフ国王入国管理官に指紋押捺されているシーンとして再現されている。 なお、キャロル・アンの父親実際にであったのかははっきりしないが、チャップリンジョーンに対して性的好奇心持ったこと自体は、チャップリン自身自伝認めている。

※この「チャップリンとの関係」の解説は、「ジョーン・バリー (アメリカの女優)」の解説の一部です。
「チャップリンとの関係」を含む「ジョーン・バリー (アメリカの女優)」の記事については、「ジョーン・バリー (アメリカの女優)」の概要を参照ください。

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