チャップマンの悲劇
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「1920年のメジャーリーグベースボール」の記事における「チャップマンの悲劇」の解説
この年8月16日、ニューヨークのポログラウンズでのヤンキース対インディアンス戦で、ヤンキースのカール・メイズ投手が投げた球がインディアンス遊撃手のレイ・チャップマンの左こめかみに当たり、チャップマンは意識不明となって病院に運ばれたが翌朝死亡した。この時点ではインディアンスが首位で1.5ゲーム差でヤンキースが2位で、首位攻防戦の大事な試合であったが、レッドソックスからトレードされてきたカール・メイズは下手投げのサブマリン投法のピッチャーであり、レイ・チャップマンは好守好走のコンスタントな3割打者でメジャーリーグ11年目の好打者であり、極端に本塁にかぶさって打つクラウチング・スタイルの打法であったことがこの悲劇の事故を生んでしまった。当時は試合に使用するボールの交換がなく、汚れたまま投手が投げていた時代で、打者にとっては試合の後半になると投手が投げるボールが見にくくなっていたことも要因の一つであった。 この事件の直後に、試合中に汚れた球は審判員の判断でいつでも交換が可能になり、目視を難しくさせるボールに細工をする行為の対策が徹底され、またまだ打者の頭部を保護するヘルメットの無い時代であったので、打者の頭部を保護する対策についての議論が始まり、第二次大戦後にヘルメットが普及するまでこの「チャップマンの悲劇」はファンの記憶に残った。 そしてこの悲劇がインディアンスの選手を結束させ、またチャップマンの後釜にマイナーリーグから昇格させたジョー・シーウェル遊撃手(後に殿堂入りする)がトリス・スピーカー監督の予想以上に活躍して、この年はクリーブランド・インディアンスの年となった。なおこの試合にはカール・メイズと同じくレッドソックスから移ってきたベーブ・ルースやレフティ・オドールも出場していた。
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