チャップリンと晩期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/03 14:02 UTC 版)
「エッサネイ・スタジオ」の記事における「チャップリンと晩期」の解説
1914年、エッサネイ社はチャールズ・チャップリンに、より高額な給与と専属の製作チームを提供することにより、 マック・セネットのキーストン・スタジオから彼を引き抜くことに成功した。エッサネイ社でチャップリンは1915年、シカゴとナイルズのスタジオで14本の短編喜劇を製作し、「ブロンコ・ビリー・シリーズ」の1本『彼の更生(英語版)』にカメオ出演した。エッサネイ社でのチャップリンの作品は、キーストン時代の混沌としたドタバタに比べ、話の筋により重きが置かれて規律のあるものであった。中でも記念碑的作品は『チャップリンの失恋』である。チャップリン演じる放浪者が農場での仕事を得て、そこの娘に恋をするという内容で、チャップリンは、スラップスティック・コメディ映画にそれまでなかったドラマ性やペーソスを取り入れた(放浪者は銃で撃たれて倒れた上に失恋する)。映画の最後は、うなだれて歩く寂しげな放浪者の後ろ姿であるが、すぐに気を取り直して胸を張り、次の冒険に向かう姿で終わるという有名な場面である。観衆はこのチャップリンの人間味あるキャラクターに共感し、チャップリンはその後、喜劇的な状況におけるシリアスで感傷的な主題を追及していった。 エッサネイ社におけるチャップリンの共演者達には、次のような俳優達がいた。ベン・ターピンは、チャップリンの慎重な製作姿勢を嫌ったため、共演は2本のみで終わった。純情な娘役を務めたエドナ・パーヴァイアンスは、チャップリンの私生活上でも恋仲となった。レオ・ホワイトは、ほとんどの作品でヨーロッパ風の神経質な悪人として出演しているほか、バド・ジェイミソン(英語版)やジョン・ランドのように、作品により様々な役をこなす万能な俳優もいた。 チャップリンはシカゴの気まぐれな天候を嫌い、1年後にはより多くの報酬とより大きな製作上の権限を求めて退社した。チャップリンの退社は、設立者のスプアとアンダーソンとの関係に亀裂をもたらした。チャップリンはエッサネイ社の稼ぎ頭であったため、エッサネイ社はボツになったシーンのフィルムを再編集することにより、チャップリンの「新作」を作り上げた。最終的にチャップリンの後釜としてエッサネイ社は、その洗練されたパントマイム芸がチャップリンと比較されたフランスのコメディアン、マックス・ランデーと契約した。ランデーはチャップリンのアメリカでの人気に敵わなかった。スタジオ救済のための最後の試みとして、エッサネイ社は1918年にシカゴの映画配給業者、ジョージ・クレイン(George Kleine)が新たに始めた合弁会社「V-L-S-E, Incorporated」の傘下となった。これは、ヴァイタグラフ・スタジオ(英語版)、ルービン・マニュファクチュアリング・カンパニー(英語版)、セリグ・ポリスコープ・カンパニー(英語版)、エッサネイ社の4つの映画会社の合同企業体であった。この内、ブランド名としてヴァイタグラフのみが1920年まで続いたが、1925年にはワーナー・ブラザースに吸収された。
※この「チャップリンと晩期」の解説は、「エッサネイ・スタジオ」の解説の一部です。
「チャップリンと晩期」を含む「エッサネイ・スタジオ」の記事については、「エッサネイ・スタジオ」の概要を参照ください。
- チャップリンと晩期のページへのリンク