チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史
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「チャコ文化国立歴史公園」の記事における「チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史」の解説
考古学者は、サン・ファン盆地に最初に人が訪れたのは、古期の狩猟採集民であると考える。クローヴィス尖頭器をもつ移動性の狩猟民は紀元前1万年前後からかわるがわる南西部地方を訪れた。紀元前900年にアトラトル洞窟に人が住んでいたことが明らかになっている。チャコ・キャニオンに住んだ古期の人々の足跡は、そういった狩猟民の遺跡よりも少なくわずかしか確認されていない。紀元490年になると古期の人々の子孫は、いわゆるバスケットメーカーとしてチャコ・キャニオンで農耕を続け、シャービックエスチー(Shabik’eshchee)遺跡やそのほかの集落で竪穴式住居に住んでいた。 バスケットメーカー文化の時代には、チャコ・キャニオンの人口はわずかであったが、紀元800年ごろからさらに発展し、集落が三日月状に造られ、4つから5つの居住用に用いられた部屋ごとに組み合わされるようにキヴァという半地下式の宗教的な儀式を行うための大きめな空間が設けられた。こういった構造はプエブロ文化の初期に見られる特徴である。850年代になると古代プエブロ人の人口は増えて、急速に居住範囲はひろがり、砂岩を用いたプエブロの集落をつくって集住していくようになる。このころのプエブロに住んだ人々をナバホ族によって借用されたユト語族の概念では、「古代の人々」ないし「敵の先祖」という意味の「アナサジ」という名で知られるようになる。 10世紀以降、チャコ・キャニオンの渓谷全体にわたるような規模のトルコ石の採取と交易がおこなわれるようになった。この時期に壮大なプエブロ・ボニートの最も古い部分が大きく湾曲する北壁沿いに50か所に及ぶ部屋がつくられた。 チャコ・キャニオンの特徴的な集住システムが崩壊し始めたのは、1140年頃からであった。おそらく1130年から始まる50年以上にわたる旱魃の影響と考えられる。はげしい旱魃を含め気候が不安定だった時期は、1250年から1450年の間にも訪れている。ほかの原因としては、掘削した小川の水が涸れたり、森林の伐採が挙げられる。たとえば建造物を建てるための木材は、西方80kmに位置するchuska山脈から運ばれていた。12世紀末にはチャコ・キャニオンの周縁にあった集落がなくなりはじめ、チャコ・キャニオンの中央部にある建物は良好な状態のまま放棄された。研究者たちは、考古学的な成果から、チャコ・キャニオンを築いたプエブロ族は、南方や東方や西方にあるリトル・コロラド川、リオ・プエルコ川、リオ・グランデ川沿いに移り住んだと考えている。 ユト・アステカ語族の流れをくむユト族やショショーニ族などヌミック語派の人々は、12世紀初めごろにコロラド高原に住むようになり、移動性の南アサバスカ語系のアパッチ、ナバホ族の人々が15世紀からチャコ・キャニオンにやってきた。この過程で、彼らはチャコ・キャニオンの生活習慣や農耕技術を習得した。ユト語族の集団は、さらにチャコ・キャニオンに頻繁におとづれ、狩猟や略奪をおこなった。近代のナバホ族の首長によっておさめられた社会は、チャコ・キャニオンの西側につくられ、Diné族として知られる多くのナバホ系の人々はその周囲に移り住んだ。17世紀にスペイン人が到着すると征服と反乱の時代になり、チャコ・キャニオンは、スペインの支配からのがれようとするプエブロ人とナバホ人の難民を吸収する場所となった。メキシコ、アメリカと引き続いてチャコ・キャニオンに住む住民たちに対して軍事行動が起こされてきた。 1832年にジョサイア・グレッグ (Josiah Gregg) がチャコ・キャニオンを訪れて史上最初の記録を残している。グレッグは、プエブロ・ボニートについて、砥石のようにきめの細かい砂岩で築かれていると記録している。1849年にアメリカ陸軍の地形測量士であるジェームズ・H・シンプソン中尉の指揮する分隊が通過した際にいくつかの遺跡を調査した。それは、次の50年間にはだれも訪れることのないような非常に辺鄙な場所であった。1870年代にスミソニアン研究所の研究者が短期間の一般調査を行った。本格的な考古学的調査が始まったのは1896年のことでアメリカ自然史博物館のハイド (Hyde)調査隊によるものであった。ハイド調査隊は、プエブロ・ボニートの発掘調査を夏季の5回にわたって行った。そして60,000点にも及ぶ遺物をニューヨークにある館に送った。 1901年にハイド調査隊で働いていたリチャード・ウェザーリル (Richard Wetherill) は、プエブロ・ボニートを含む約652km2について払い下げて、自分の所有地としたいと政府に申請した。ウェザーリルの払い下げ要求を調査していた連邦調査官のサミュエル・J・ホルジンガーは、チャコ・キャニオンとその遺跡群、とくにシェトロ・ケトル (Chetro Ketl) の上にある古代の道路や階段、古代のダムや灌漑システムについて報告している。ホルジンガーの報告は公刊されることはなかったが、チャコ・キャニオンを保護するとともにそれを含めて国立公園をつくることを強く勧めるものであった。次の年、ニューメキシコ師範大学(後のニューメキシコ高原大学)の学長になったエドガー・リー・ヒューエット(Edgar Lee Hewett)は、多くの遺跡の図化を行った。ヒューエットらは、1906年のアメリカ合衆国ではじめての古文化財を保護する法律である連邦古遺物法 (the Federal Antiquities Act) の制定に貢献した。このことは結果としてウェザーリルのチャコ・キャニオンでの活動をとりまく論議の重大性を示すことになった。連邦古遺物法は、大統領が国定記念物を指定することができる権限も盛り込まれた。セオドア・ルーズベルト大統領は、1907年3月11日にチャコ・キャニオンを国定記念物にすることを布告した。 1949年、チャコ・キャニオン国定記念物は、ニューメキシコ大学から土地を譲り受けて範囲が拡大された。そのみかえりとしてニューメキシコ大学は、チャコ・キャニオンを学術的に調査する権利を確保した。1959年、アメリカ国立公園局は、見学者のためのビジターセンター、職員宿舎、宿営施設を整備した。国立公園局が管理する歴史的遺産としてチャコ・キャニオン国定記念物は、1966年10月15日にアメリカ国立登録史跡に指定された。1971年にロバート・リスター (Robert Lister) とジェームズ・ジャッジ (James Judge) は、国立公園局とニューメキシコ大の調査プロジェクトを結合する研究機関としてチャコセンターを設立した。多くの学際的な調査プロジェクトや考古学的な踏査、部分的な発掘調査がこの間行われた。チャコセンターによってチャコ・キャニオンの人々が築いた遺跡がさらに確認され、良好に整備された道路がチャコ・キャニオンの中央部から放射状に広がっていることが明らかにされた。プエブロ・アルトをはじめとして他の遺跡で行われた調査によってチャコ・キャニオンの文化とフォー・コーナーズ地域の学際的な位置づけが著しく高められることになった。 チャコ・キャニオンの遺跡にみられる豊富な文化財は、小さかった国立記念物を1980年12月19日に現在のチャコ文化国立歴史公園にまで拡張することになった。さらに53平方キロメートルの保護区域が加えられた。1987年にユネスコの世界遺産に登録された。公有地管理局とナバホ保留地にあるチャコ・キャニオン遺跡群をまもるために国立公園局は、チャコ文化考古遺跡保護プログラムを実施するための総合的な機関として位置づけられるようになった。国立公園局の主導でチャコ文化国立歴史公園内の2400か所の考古遺跡の存在が確認され保護されている。そのうち発掘調査が行われたのはごくわずかである。
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