チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史とは? わかりやすく解説

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チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 14:36 UTC 版)

チャコ文化国立歴史公園」の記事における「チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史」の解説

考古学者は、サン・ファン盆地最初に人が訪れたのは、古期狩猟採集民であると考える。クローヴィス尖頭器をもつ移動性狩猟民は紀元前1万年前後からかわるがわる南西部地方訪れた紀元前900年アトラトル洞窟に人が住んでいたことが明らかになっている。チャコ・キャニオン住んだ古期人々足跡は、そういった狩猟民の遺跡よりも少なくわずかしか確認されていない紀元490年になると古期人々の子孫は、いわゆるバスケットメーカーとしてチャコ・キャニオン農耕続け、シャービックエスチー(Shabik’eshchee)遺跡そのほか集落竪穴式住居住んでいた。 バスケットメーカー文化時代には、チャコ・キャニオン人口はわずかであったが、紀元800年ごろからさらに発展し集落三日月状造られ4つから5つ居住用に用いられ部屋ごとに組み合わされるようにキヴァという半地下式の宗教的な儀式を行うための大きめ空間設けられた。こういった構造プエブロ文化初期見られる特徴である。850年代になると古代プエブロ人人口増えて急速に居住範囲ひろがり砂岩用いたプエブロ集落つくって集住していくようになるこのころプエブロ住んだ人々ナバホ族によって借用されユト語族概念では、「古代人々」ないし「敵の先祖」という意味の「アナサジ」という名で知られるうになる10世紀以降チャコ・キャニオン渓谷全体にわたるような規模トルコ石採取交易おこなわれるようになった。この時期壮大なプエブロ・ボニートの最も古い部分大きく湾曲する北壁沿いに50か所に及ぶ部屋つくられた。 チャコ・キャニオン特徴的な集住システム崩壊し始めたのは、1140年頃からであった。おそらく1130年から始まる50年以上にわたる旱魃の影響考えられる。はげしい旱魃含め気候不安定だった時期は、1250年から1450年の間にも訪れている。ほかの原因としては、掘削した小川涸れたり森林伐採挙げられる。たとえば建造物建てるための木材は、西方80kmに位置するchuska山脈から運ばれていた。12世紀末にはチャコ・キャニオン周縁にあった集落なくなりはじめ、チャコ・キャニオン中央部にある建物良好な状態のまま放棄された。研究者たちは、考古学的な成果から、チャコ・キャニオン築いたプエブロ族は、南方東方西方にあるリトル・コロラド川、リオ・プエルコ川、リオ・グランデ川沿いに移り住んだ考えている。 ユト・アステカ語族流れをくむユト族ショショーニ族などヌミック語派人々は、12世紀初めごろにコロラド高原に住むようになり、移動性の南アサバスカ語系のアパッチナバホ族人々15世紀からチャコ・キャニオンにやってきた。この過程で、彼らはチャコ・キャニオン生活習慣農耕技術習得したユト語族集団は、さらにチャコ・キャニオン頻繁におとづれ、狩猟略奪おこなった近代ナバホ族首長によっておさめられ社会は、チャコ・キャニオン西側つくられDiné族として知られる多くナバホ系の人々はその周囲移り住んだ17世紀スペイン人到着する征服反乱時代になり、チャコ・キャニオンは、スペイン支配からのがれようとするプエブロ人とナバホ人難民吸収する場所となったメキシコアメリカ引き続いてチャコ・キャニオンに住む住民たちに対して軍事行動起こされてきた。 1832年にジョサイア・グレッグ (Josiah Gregg) がチャコ・キャニオン訪れて史上最初の記録残している。グレッグは、プエブロ・ボニートについて、砥石のようにきめの細かい砂岩築かれていると記録している。1849年アメリカ陸軍地形測量士であるジェームズ・H・シンプソン中尉指揮する分隊通過した際にいくつかの遺跡調査した。それは、次の50年間にはだれも訪れることのないような非常に辺鄙な場所であった1870年代スミソニアン研究所研究者短期間一般調査行った本格的な考古学的調査始まったのは1896年のことでアメリカ自然史博物館ハイド (Hyde)調査隊によるものであったハイド調査隊は、プエブロ・ボニートの発掘調査夏季の5回にわたって行った。そして60,000点にも及ぶ遺物ニューヨークにある館に送った1901年ハイド調査隊で働いていたリチャード・ウェザーリル (Richard Wetherill) は、プエブロ・ボニートを含む約652km2について払い下げて、自分所有としたい政府申請した。ウェザーリルの払い下げ要求調査していた連邦調査官サミュエル・J・ホルジンガーは、チャコ・キャニオンとその遺跡群、とくにシェトロ・ケトル (Chetro Ketl) の上にある古代道路階段古代ダム灌漑システムについて報告している。ホルジンガー報告公刊されことはなかったが、チャコ・キャニオン保護するとともにそれを含めて国立公園をつくることを強く勧めるものであった次の年、ニューメキシコ師範大学(後のニューメキシコ高原大学)の学長になったエドガー・リー・ヒューエット(Edgar Lee Hewett)は、多く遺跡の図化を行った。ヒューエットらは、1906年アメリカ合衆国ではじめての古文化財を保護する法律である連邦遺物法 (the Federal Antiquities Act) の制定貢献した。このことは結果としてウェザーリルのチャコ・キャニオンでの活動をとりまく論議重大性を示すことになった連邦遺物法は、大統領国定記念物指定することができる権限も盛り込まれた。セオドア・ルーズベルト大統領は、1907年3月11日チャコ・キャニオン国定記念物にすることを布告した1949年チャコ・キャニオン国定記念物は、ニューメキシコ大学から土地譲り受け範囲拡大された。そのみかえりとしてニューメキシコ大学は、チャコ・キャニオン学術的に調査する権利確保した1959年アメリカ国立公園局は、見学者のためのビジターセンター職員宿舎宿営施設整備した国立公園局管理する歴史的遺産としてチャコ・キャニオン国定記念物は、1966年10月15日アメリカ国立登録史跡指定された。1971年にロバート・リスター (Robert Lister) とジェームズ・ジャッジ (James Judge) は、国立公園局ニューメキシコ大の調査プロジェクト結合する研究機関としてチャコセンターを設立した多く学際的な調査プロジェクト考古学的な踏査部分的な発掘調査この間行われた。チャコセンターによってチャコ・キャニオン人々築いた遺跡がさらに確認され良好に整備され道路チャコ・キャニオン中央部から放射状広がっていることが明らかにされた。プエブロ・アルトをはじめとして他の遺跡行われた調査によってチャコ・キャニオン文化フォー・コーナーズ地域学際的な位置づけ著しく高められることになったチャコ・キャニオン遺跡みられる豊富な文化財は、小さかった国立記念物1980年12月19日現在のチャコ文化国立歴史公園にまで拡張することになった。さらに53平方キロメートル保護区域加えられた。1987年ユネスコの世界遺産登録された。公有地管理局ナバホ保留地にあるチャコ・キャニオン遺跡群をまもるために国立公園局は、チャコ文化考古遺跡保護プログラム実施するための総合的な機関として位置づけられるようになった国立公園局主導チャコ文化国立歴史公園内の2400か所の考古遺跡存在確認され保護されている。そのうち発掘調査が行われたのはごくわずかである。

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