ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年とは? わかりやすく解説

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ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 20:37 UTC 版)

イギー・ポップ」の記事における「ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年」の解説

イギーたちはバンド名をザ・サイケデリック・ストゥージズと決め改め活動本格化させた。最初ギグは、ミシガン州デトロイトにある家のハロウィンパーティーで行われた。この時はまだイギーリードヴォーカル担当しておらず、インストゥルメンタルバンドとして演奏披露した。しかし、フロントマンとしてのイギーは、後に自身有名にすることになった観客驚かせるようなパフォーマンスを既に意識的に行なっており、このギグでは奇抜な服装登場し居合わせた客たちを困惑させた。そのパーティにはMC5のメンバー出席していた。1968年3月、ザ・サイケデリック・ストゥージズは初めギャラの出るギグ出演した。この時にイギーはステージダイブを披露し、歯を折った同年8月11日ミシガンMothersというクラブで、観客女性捕まえて性交のように腰を振り、それからステージ上に登って性器露出した結局警察がやってきて彼を逮捕した1970年8月ニューヨーククラブUnganoでも、ステージ中に嘔吐したり、性器露出してアンプの上寝かせパフォーマンス行っている。1979年にはデニス・クーパーLittle Caesar8号カバーで、ヌード写真掲載された。 イギーは、観客驚かせ困惑させる過激なステージパフォーマンスについて、後年ジム・モリソン影響にあった語っている。1967年ザ・ドアーズミシガン大学行なったギグ見ており、モリソンステージで披露する悪ふざけ観客向けた敵意驚かされフロントマンとなった際の参考としたという。 ドアーズは2回見てるよ。最初に見たのは人気出始めの頃だったけど、大きな大きな大きな影響受けたよ。ちょうど大ヒット曲「ハートに火をつけて」を出して出世階段駆け上っていくところで、だからこの男、カールした髪をオールバックにして革ジャン着てドラッグ酔っていたモリソン、にしてみるとステージは狭過ぎたし低かった全てふさわしくない感じだった。本当に面白かった彼のパフォーマンス大好きだった俺の一部は「おい、こいつはすごい。奴は本当に客を怒らせてるぜ」と思ってた。「くそったれお前ら空っぽ空っぽ空っぽだ」「マスでもかいてろ」と罵倒するモリソン向かって客が押し寄せてた。だが一方、こうも思った。「彼らがレコードヒットさせたら、こんな騒ぎとはおさらばだろう。だったら俺達バンドでこいつをやらない手はない」ってね。それは天啓だったな。「おい、これならできるぜ!」ってね。で、実際にそうしたのさ。 モリソン人気バンドフロントマンありながら極端な振る舞い見せていたため、イギーはそれを更に上回ることを意識した徐々に過激化ていったイギーステージパフォーマンスは、割れたガラスの上転がりまわったり、群衆前にして局部露出するところまでに至ることになる。 バンド活動続けていく中、デトロイトロックシーンの中心的存在だったMC5と繋がり持ち様々なギグ共演続けていくうちに、エレクトラ・レコードザ・ドアーズパブリシティ担当していたダニー・フィールズ(英語版)の目に留まり1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードレコードリリース契約締結することになったその際バンド名が長いということザ・ストゥージズ改名している。 ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの人脈持っていたこともあって、デビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ(英語版)』のプロデューサーにはヴェルヴェット・アンダーグラウンド脱退したばかりのジョン・ケイル起用された。レコーディング中にザ・ストゥージズウォーホルファクトリー (アンディ・ウォーホル)(英語版)に出入りできることになり、イギーニコ知り合うことになった1969年5月3日オハイオ・ウェスリアン大学でのライブではドラムスティック尖端自分の胸を切り裂き始め血塗れのままライブ行った同年8月5日デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』がリリースされビルボード総合チャート最高位106位とローカルバンドとしてはまずまずチャートアクション記録したが、イギー及びスコット・アシュトン薬物依存とデイヴ・アレクサンダーの過度飲酒癖によって徐々にバンド混乱状態に陥っていくことになる。 セカンドアルバムファン・ハウス英語版)』制作にあたりインパクトのある楽器追加したいというイギー考えから、イギー大学後輩で、カーナル・キッチンというインストゥルメンタルユニットで活動していたサックス奏者スティーヴ・マッケイレコーディング参加させた。 ドン・ガルッチがプロデューサー務めデビュー前持っていたインストゥルメンタルバンドとしての側面と、デビュー後見せたロックンロールバンドとしての側面融合させたこのアルバム1970年7月7日リリースされ著名な音楽評論家レスター・バングス(英語版)にクリーム (アメリカ合衆国の音楽雑誌) (英語版誌上絶賛されるが、チャートアクションデビューアルバム下回ってしまった。 1970年6月13日シンシナティでのライブでは全身ピーナッツバターを塗るパフォーマンス行った。 『ファン・ハウス』が商業的に失敗終わった後、ザ・ストゥージズはツインギター体制とし、新たな展開模索していたが、メンバー短期間入れ替わりリーダーであるイギー薬物入手のためにエレクトラから得た契約金メンバー無断で手をつけ、更にロン・アシュトンを除くメンバー全員薬物依存だったため、やはり薬物入手のために機材売り払うなど、コントロール失っていった。 そんなバンドエレクトラ見切りをつけ、イギーメンバースコット・アシュトンジェームズ・ウィリアムソン)と同居していたマンション担当者派遣すると、次回作のために準備していた新曲確認し、「出来良くない」と告げて契約解除した。これにより、ザ・ストゥージズ商業的に行き詰まってしまう。 加えてイギー薬物依存症治療のために施設通い始め当時作曲パートナーでもあったジェームズ・ウィリアムソン肝炎罹患して療養生活に入るなど、メンバー継続的に揃うことも難しくなったことから、1971年7月9日ザ・ストゥージズ解散宣言した

※この「ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年」の解説は、「イギー・ポップ」の解説の一部です。
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