ザ・ストゥージズ参加まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:46 UTC 版)
「スティーヴ・マッケイ」の記事における「ザ・ストゥージズ参加まで」の解説
高校時代から徐々にバンド活動に興味を持つようになるが、ちょうどその頃ブリティッシュ・インヴェイジョンが到来して周囲の友人たちがエレキギターに向かったことから、サックスを演奏できる人材が減り、そのため様々なバンドに呼ばれ、多くの演奏機会に恵まれた。そんな高校時代の仲間たちとやがてカオス・インクというバンドを結成し、ロウアー半島を一周する規模のツアーを行う。この頃にイグアナズというバンドのマネージャーをしていた人物から接触があり、マネジメントをさせて欲しいと頼まれている。この時、イグアナズのメンバーだったイギー・ポップと名乗る前のジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアと面識を得た。 高校卒業後は、本人はプロのサックス奏者になるつもりだったが、父に大学には行くように勧められ、1967年にミシガン州アナーバーにあるミシガン大学のアートスクールに進学する。 大学入学後、イギー・ポップも勤務経験があるレコードショップ「ディスカウント・レコーズ」でアルバイトを始めるとともに、アナーバーのクラブ、クリンツ・クラブに定期的に出演していたバンド、ビリーC・アンド・ザ・サンシャインに加入した。このバンドはジャズのスタンダードを主に演奏していたが、リード・ボーカルのジョージ・フレインが脱退したことをきっかけに、ザ・チャージング・ライノセロス・オブ・ソウル(The Charging Rhinoceros of Soul)と名を変えてリズム・アンド・ブルースバンドへと衣替えする。マッケイはジャズに興味を持っていたため、この方針転換には満足できず、1969年に自分の演奏したい音楽を求めて高校時代からの友人でありドラマーだったマーク・ランパートとインストゥルメンタルデュオ、カーナル・キッチンを結成する。結成当初はマッケイの自宅地下室で練習し、公共施設、公園、路上、カフェの前でゲリラ的に演奏するという状態だったが、やがて母校ミシガン大学の学園祭的催し(A Yearly Art School Costume Ball)に呼ばれ、初めて大勢の観客の前で演奏する機会を得た この演奏を最前列の席から見ていたのがイギー・ポップだった。また、後に頻繁に共演するカントリーロックバンド、コマンダー・コディ・アンド・ヒズ・ロスト・プラネット・エアメンもライブに参加しており、マッケイの音楽キャリアにとって転機となるライブとなったこのライブ後に改めてマッケイはイギーと親交を結んでカフェで語り合う仲となり、1970年の春にデトロイトで行われたザ・ストゥージズのジャムセッションへの参加へ繋がった。 イギーは後に「ギター、ベース、ドラム以外の楽器の演奏者を探していた」と語っている。
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