アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大(1899年 - 1919年)
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「ホンジュラスの歴史」の記事における「アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大(1899年 - 1919年)」の解説
1899年、ホンジュラスのバナナ産業(英語版)は大きく成長していた。1899年に権力が平和裏にポリカルポ・ボニリャ(英語版)大統領からテレンシオ・シエラ(英語版)大統領に移譲されたことはホンジュラスにおいて政権交代がはじめて平和裏に行われた例である。1902年にはバナナ産業の成長に従い、カリブ海岸で鉄道が建設された。しかし、1902年ホンジュラス総選挙(英語版)で後任の大統領が選出されてもシエラが権力の座にしがみつこうとして、退任を拒否したため、1903年に当選者のマヌエル・ボニリャ(英語版)に追い落とされた。 シエラを失脚された後、保守派のボニリャは自由派の元大統領ポリカルポ・ボニリャを2年間投獄、ホンジュラス国内の自由派を弾圧した。これは組織をもった政党が保守派以外には自由派しかなかったためであった。当時の保守派は個人主義な派閥に分裂、求心力のある指導者にかけていたが、ボニリャは保守派を国民党(英語版)に再編した。現ホンジュラス国民党はこの国民党を起源としている。 ボニリャはシエラよりも親バナナ会社だった。ボニリャの治下、バナナ会社は免税特権、そして埠頭と道路を建設する権利を獲得、さらに内水道の改善許可と鉄道建設の許可を得た。また、ボニリャはニカラグアとの国境を定め、1906年にグアテマラの侵攻を退けた。グアテマラ軍を撃退した後、ボニリャは講和、グアテマラとエルサルバドルと友好協定を締結した。 ニカラグア大統領ホセ・サントス・セラヤ(英語版)は友好協定を反ニカラグア同盟とみて、ボニリャの追い落としを計画した。ボニリャは独裁者として権力を奪取しており、セラヤはニカラグアに逃亡していたホンジュラスの自由派を支援した。自由派はニカラグア軍の支援を得て1907年2月にホンジュラスに侵攻した。ボニリャはエルサルバドル軍の援助を借りて抵抗しようとしたが、3月には決定的な敗北を喫した(この戦闘は機関銃を中米に導入した戦闘として知られている)。ボニリャが失脚した後、自由派は臨時フンタを設立したが、このフンタは長続きしなかった。 アメリカのエリート層は自身の利益を守るにはセラヤを阻止して、パナマ運河地域を守り、ひいてはバナナ貿易を守る必要があると気づいた。ホンジュラス自由派による侵攻に米国政府は喜ばず、米国政府はセラヤは中米全域を支配しようとしていると考え、バナナ貿易を守るべく海兵隊をプエルト・コルテス(英語版)に派遣した。米国海軍の部隊はホンジュラスに派遣され、ボニリャ最後の防御陣地であるフォンセカ湾のアマパラの守備に成功した。米国の臨時代理大使がテグシガルパで用意した講和協定により、ボニリャは大統領から退任、ニカラグアとの戦争は終結した。 協定は折衷として、ミゲル・ラファエル・ダビラ・クエリャル(英語版)将軍をテグシガルパのホンジュラス政府に据えた。しかしセラヤはダビラを信用しておらず、協定に満足しなかった。セラヤはダビラを失脚させるためにエルサルバドルと秘密協定を締結したが、セラヤの計画は失敗、ホンジュラスにおける米国の利害関係者を警戒させただけだった。米国とメキシコは中米5か国を中央アメリカ平和会議に招き、地域を安定させようとした。中米5か国は会議で平和友好に関する一般条約を締結、5か国間の紛争解決制度として中米司法裁判所を設立した。また、ホンジュラスは永世中立国になった。 1908年、ダビラの政敵はクーデターを起こそうとして失敗したが、米国のエリート層はホンジュラスの政情不安を憂慮した。米国のタフト政府は1.2億米ドルという巨大なホンジュラス外債を政情不安の理由とみて、関税収入を米国に抵当に入れるなどして、ホンジュラスが主にイギリスから借り入れていた外債をリファイナンスした。ホンジュラスの代表とJ・P・モルガン率いるニューヨーク銀行家の代表団が交渉を行い、1909年末には減債と利率5%の債券の発行を合意した。その抵当として、銀行家たちはホンジュラスの鉄道支配権を得て、米国政府は関税収入を統制するがホンジュラスの独立を保証するとした。 銀行家の提案はホンジュラスで大反対され、ダビラ政権をさらに弱体化させた。J・P・モルガンとの合意を盛り込んだ条約は1911年1月にようやく締結され、ダビラによってホンジュラス議会に提出された。しかし、大統領に従属することの多かったホンジュラス議会は33票対5票で条約を拒否した。 1911年に反ダビラ蜂起がおこり、債務問題の対処が中止されてしまった。米国は海兵隊を上陸させて介入、両軍は米軍艦での面会を余儀なくされた。元大統領マヌエル・ボニリャ率いる革命派と政府は停戦に同意、米国の調停者トマス・クレランド・ドーソン(英語版)が臨時大統領を選任することにも同意した。ドーソンは早期に自由選挙を行うことを承諾したフランシスコ・ベルトランド(英語版)を任命、ダビラは辞任した。 1912年の選挙ではマヌエル・ボニリャが当選したが、翌1913年に死去した。副大統領に就任していたベルトランドは大統領に昇格、1916年の選挙(英語版)でも再選されて任期が1920年まで延びた。1911年から1920年まで、ホンジュラスは相対的に安定、鉄道敷設が進み、バナナ貿易も大きく発展した。しかし、この安定期にも革命派の陰謀は続き、バナナ会社が革命軍の一派を支持しているとの噂が飛び交った。そして、1920年以降にはホンジュラスの安定が維持しにくくなった。 バナナ産業の隆盛により、ホンジュラスで労働者運動が発展、同国史上初の大規模なストライキが起こった。その嚆矢になったのは1917年のクヤメル・フルーツ(英語版)に対するストライキであり、ホンジュラス軍に鎮圧されたが翌年にはラ・セイバでスタンダード・フルーツ・カンパニー(英語版)に対するストライキがおこった。1920年、カリブ海岸でゼネラルストライキがおこり、その対処として米国の軍艦が同地域に派遣され、ホンジュラス政府はゼネストの指導者を逮捕した。そして、スタンダード・フルーツが日当を1.75米ドルに上げると、ストライキは終結した。しかし、バナナ貿易における労使紛争が止むことはなかった。
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