アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大とは? わかりやすく解説

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アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大(1899年 - 1919年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)

ホンジュラスの歴史」の記事における「アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大(1899年 - 1919年)」の解説

1899年ホンジュラスバナナ産業英語版)は大きく成長していた。1899年権力平和裏にポリカルポ・ボニリャ(英語版大統領からテレンシオ・シエラ(英語版大統領移譲されたことはホンジュラスにおいて政権交代がはじめて平和裏行われた例である。1902年にはバナナ産業成長従いカリブ海岸で鉄道建設された。しかし、1902年ホンジュラス総選挙英語版)で後任大統領選出されてもシエラ権力の座しがみつこうとして、退任拒否したため、1903年当選者のマヌエル・ボニリャ(英語版)に追い落とされた。 シエラ失脚された後、保守派のボニリャは自由派の元大統領ポリカルポ・ボニリャを2年投獄ホンジュラス国内自由派弾圧した。これは組織をもった政党保守派以外には自由派しかなかったためであった当時保守派個人主義派閥分裂求心力のある指導者にかけていたが、ボニリャは保守派国民党英語版)に再編した。現ホンジュラス国民党はこの国民党起源としている。 ボニリャはシエラよりも親バナナ会社だった。ボニリャの治下バナナ会社免税特権、そして埠頭道路建設する権利獲得、さらに内水道の改善許可鉄道建設許可得たまた、ボニリャはニカラグアとの国境定め1906年グアテマラ侵攻退けたグアテマラ軍を撃退した後、ボニリャは講和グアテマラエルサルバドル友好協定締結したニカラグア大統領ホセ・サントス・セラヤ(英語版)は友好協定を反ニカラグア同盟とみて、ボニリャの追い落とし計画した。ボニリャは独裁者として権力奪取しており、セラヤニカラグア逃亡していたホンジュラス自由派支援した自由派ニカラグア軍の支援得て1907年2月ホンジュラス侵攻した。ボニリャはエルサルバドル軍援助借りて抵抗しようとしたが、3月には決定的な敗北喫した(この戦闘機関銃中米導入した戦闘として知られている)。ボニリャが失脚した後、自由派臨時フンタ設立したが、このフンタ長続きしなかった。 アメリカエリート層は自身利益を守るにはセラヤ阻止してパナマ運河地域守りひいてはバナナ貿易を守る必要があると気づいた。ホンジュラス自由派による侵攻米国政府は喜ばず、米国政府セラヤ中米全域支配しようとしていると考えバナナ貿易を守るべく海兵隊プエルト・コルテス英語版)に派遣した米国海軍部隊ホンジュラス派遣され、ボニリャ最後防御陣地であるフォンセカ湾アマパラ守備成功した米国臨時代理大使テグシガルパ用意した講和協定により、ボニリャは大統領から退任ニカラグアとの戦争終結した協定折衷として、ミゲル・ラファエル・ダビラ・クエリャル(英語版将軍テグシガルパホンジュラス政府据えた。しかしセラヤダビラ信用しておらず、協定満足しなかった。セラヤダビラ失脚させるためにエルサルバドル秘密協定締結したが、セラヤ計画失敗ホンジュラスにおける米国利害関係者警戒させただけだった米国メキシコ中米5か国を中央アメリカ平和会議招き地域安定させようとした。中米5か国は会議で平和友好に関する一般条約締結、5か国間の紛争解決制度として中米司法裁判所設立したまた、ホンジュラス永世中立国になった1908年ダビラ政敵クーデター起こそうとして失敗したが、米国エリート層はホンジュラス政情不安を憂慮した。米国タフト政府1.2米ドルという巨大なホンジュラス外債政情不安の理由とみて、関税収入米国抵当入れるなどして、ホンジュラスが主にイギリスから借り入れていた外債リファイナンスした。ホンジュラスの代表とJ・P・モルガン率いニューヨーク銀行家の代表団交渉行い1909年末には減債利率5%の債券発行合意した。その抵当として、銀行家たちはホンジュラスの鉄道支配権得て米国政府関税収入統制するホンジュラス独立保証するとした。 銀行家提案ホンジュラスで大反対され、ダビラ政権をさらに弱体化させた。J・P・モルガンとの合意盛り込んだ条約1911年1月にようやく締結されダビラによってホンジュラス議会提出された。しかし、大統領従属することの多かったホンジュラス議会33票対5票で条約拒否した1911年に反ダビラ蜂起がおこり、債務問題対処中止されてしまった。米国海兵隊上陸させて介入両軍米軍艦での面会余儀なくされた。元大統領マヌエル・ボニリャ率い革命派政府停戦同意米国調停者トマス・クレランド・ドーソン(英語版)が臨時大統領選任することにも同意したドーソン早期自由選挙を行うことを承諾したフランシスコ・ベルトランド(英語版)を任命ダビラ辞任した1912年選挙ではマヌエル・ボニリャが当選したが、翌1913年死去した副大統領就任していたベルトランドは大統領昇格1916年選挙英語版)でも再選され任期1920年まで延びた1911年から1920年まで、ホンジュラス相対的に安定鉄道敷設進みバナナ貿易大きく発展した。しかし、この安定期にも革命派陰謀続きバナナ会社革命軍一派支持しているとの噂が飛び交った。そして、1920年以降にはホンジュラス安定維持しにくくなった。 バナナ産業隆盛により、ホンジュラス労働者運動発展同国史上初の大規模なストライキ起こった。その嚆矢になったのは1917年のクヤメル・フルーツ(英語版)に対すストライキであり、ホンジュラス軍に鎮圧されたが翌年にはラ・セイバでスタンダード・フルーツ・カンパニー(英語版)に対すストライキおこった1920年カリブ海岸でゼネラルストライキがおこり、その対処として米国軍艦同地域に派遣されホンジュラス政府ゼネスト指導者逮捕した。そして、スタンダード・フルーツが日当を1.75米ドル上げると、ストライキ終結した。しかし、バナナ貿易における労使紛争が止むことはなかった。

※この「アメリカ合衆国のホンジュラスにおける影響力の増大(1899年 - 1919年)」の解説は、「ホンジュラスの歴史」の解説の一部です。
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