ウォーターゲート事件とは? わかりやすく解説

ウオーターゲート‐じけん【ウオーターゲート事件】

読み方:うおーたーげーとじけん

Watergate1972年米国大統領選で、共和党運動員が、ワシントンのウオーターゲートビルにある民主党本部盗聴装置仕掛けようとして発覚ニクソン大統領政治倫理問われ1974年8月辞任追い込まれ政治事件


ウォーターゲート事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 00:46 UTC 版)

ウォーターゲート事件(ウォーターゲートじけん、アメリカ英語: Watergate scandal)とは、1972年に起きたアメリカ合衆国の政治スキャンダル[1]


注釈

  1. ^ 1972年6月17日に起こった民主党本部への盗聴装置設置を目的とした侵入事件を当初はウォーターゲート事件と呼んでいた。その後この侵入からさまざまな問題が発覚すると同時に、連鎖的に疑惑や事件が発生し、政界を揺るがすスキャンダルとなった。最終的に大統領の弾劾を発議する政治的な対立を生み、結果として大統領辞任まで至る経過に対して、「ウォーターゲート」という言葉が使われていた。現在では一連の動きすべてがウォーターゲート事件という言葉に集約されている。
  2. ^ 最初に逮捕された時にメンバーの手帳からハントの名前とホワイトハウスでの彼のデスクの電話番号が書かれていたとする話が資料で散見されるが、1972年6月20日付けワシントンポストの記事では、コルソンの名前があって、かつハントの名前と彼の自宅の電話番号と「HOUSE, WH」の書き込みがあったということであった。事件当時、ハントはホワイトハウス非常勤顧問の職を辞して、ホワイトハウスの中で彼のデスクはなく、むしろコルソンが常勤顧問として勤めており、ホワイトハウス内に事務室があった。手帳にホワイトハウス内の電話番号があったというのはこの2人を混同した結果である
  3. ^ 最高刑を下すことが多かったため、「マキシマム・ジョン」として知られた人物である。
  4. ^ 他のメディアが無関心であったのは「ウォーターゲート事件は些細な事柄で、個々の記事が事実であったとしてもそれで権力と争う意味があるのか」といった逡巡があったと言われている。この点は前年国防総省秘密文書をすっぱ抜きニクソン政権と対立したニューヨーク・タイムズも同様であった。唯一の例外はCBSイブニングニュースのウォルター・クロンカイトであった。
  5. ^ この侵入行為が明らかとなり、エルズバーグ訴追は「政府の不正行為」として却下されることとなった。
  6. ^ 一般的にはアーリックマンと呼ぶが、一部にはエーリックマンと呼称する資料もある。
  7. ^ 一般的にはハルデマンと呼ぶが、一部にはホールドマンとも呼ばれて、当時日本ではNHKはホールドマン、民放と新聞はハルデマンと呼称していた。
  8. ^ 後に駐イラン大使。ホワイトハウスのもみ消しの圧力をはねつけた。
  9. ^ 陸軍中将だったウォーターズは、ニクソン大統領とは大佐時代の南アメリカ旅行以来の仲で親しいと目されていた。一部ではウォルターズとも呼称されていた。
  10. ^ この時FBIは、フーヴァー長官が前月の5月2日に死去して内部からマーク・フェルト副長官の昇格という見方もあったが、ニクソンは自分の意になる人材としてグレイを指名した。ただこの時点では議会の承認を得ていないので長官代行という位置づけであった。そしてこの事件に巻き込まれて翌年春に辞職に追い込まれることになった。
  11. ^ 盗聴工作の資金である、メキシコ人ビジネスマンを隠れ蓑にしたケネス・H・ダールバーグからの秘密献金の存在を隠蔽することが目的だった
  12. ^ 1973年5月21日に上院外交委員会で、CIA側は「1972年6月23日の会合でハルデマン大統領首席補佐官が大統領の希望によるものだと述べた」と証言している。その一方でその10日後の5月31日に上院歳出委員会小委員会に出席したハルデマンは「1972年6月23日の会合は大統領の指示に従った国益に沿うもので、もみ消し工作ではない」と証言している。
  13. ^ グレイはこの後7月6日に大統領へ電話をかけて、「ホワイトハウスに関係しそうだ」と警告したとされている。
  14. ^ 後にウォーターズはジェームズ・R・シュレシンジャー長官(ヘルムズの後任として1973年2月に就任)と相談した上で、「CIAのメキシコでの活動には無関係」だと捜査当局に証言した。
  15. ^ たとえばマグルーダーは、「ニクソンがミッチェルにローレンス・R・オブライエン民主党全国委員長の活動情報収集のための侵入指揮を命令した」のを立ち聞きしたなど、様々な報告書を提出している。その中身は関与を認めているものもあれば、無関係だというものもあり、未だに真相の全ては明らかになっていない。
  16. ^ 「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれるグループは実は2種類あり、1つは直接民主党本部に侵入した及びそれを指示したメンバー。マッコードやハント、リディらである。もう1つはニクソン大統領を取り巻く補佐官や大統領再選委員会のメンバーで捜査妨害をした7人、ミッチェル、ハルデマン、アーリックマン、コルソンらである。
  17. ^ そもそもディーン報告と言えるようなものはなく、ディーンからの話をアーリックマンが大統領に口頭で説明したものであったことが、1973年5月16日付けニューヨーク・タイムズにすっぱ抜かれている。
  18. ^ 本来の担当者のシルバート連邦地方検事局事件捜査主任検事やヘンリー・E・ピーターセン刑事局担当司法次官補などは、捜査内容をホワイトハウスに報告していたとして不信を買っていた。FBIは長らく権勢を振るったフーヴァー長官が事件発覚直前の1972年5月に死去、ニクソンの友人であるL・パトリック・グレイ(軍人)が長官代行だったため、ホワイトハウスの圧力に弱いと思われた。
  19. ^ 日本でもアメリカ軍放送のFENが中継した。
  20. ^ これは正式な証言ではなく、委員会スタッフ・メンバーとのインタビューでの発言だった。
  21. ^ 7月16日に公聴会でバーターフィールドが証言したという説もある。「アメリカ50年 ケネディの夢は消えた?」土田宏 著 84P参照
  22. ^ その後のテープでの聞き取り調査から、ニクソンには無駄に長話をするクセがあるのと、大統領の品性が疑われるほど下品な言動があることが分かった。
  23. ^ または「土曜夜の大虐殺」とも言われ、当時はこの言葉の方が多く使われた。
  24. ^ ちょうどこの時期に、汚職で辞任したアグニュー副大統領の後任として当時下院院内総務であったジェラルド・R・フォードがニクソンから指名を受けていた。まだ8日前のことであった。後にフォードは回顧録で、ニクソンは事件に関する事実が明らかになれば自分は全く関係無いことが分かるだろうとフォードに語り、「ニクソンはシロだと信じていた」と述べてその姿勢は辞任直前まで変わらなかった。
  25. ^ 後任としてジェラルド・R・フォード下院院内総務がニクソン大統領の指名を受け、議会の承認を受けて就任した。ニクソン辞任後に大統領に昇格。
  26. ^ この記載内容についてはジョン・C・ステニス上院軍事委員長が内容を保証したが、ステニスはニクソンとは親しい間柄であるばかりか高齢のため耳が不自由だった。
  27. ^ その多くはニクソン自身が発した下品な言葉で、放送禁止用語も含まれていた。
  28. ^ シリカ判事の求めた9本のテープのうち、2本が見つからなかったとの理由で7本の提出となった。
  29. ^ スティーブ・ブル副補佐官とウッズ秘書がキャンプ・デービッドで消去したのではないかと、ケスラーは述べている
  30. ^ ワシントンポストの2人の記者の取材活動を、両者の著書を元に描いた映画『大統領の陰謀』は、まだ事件が注目されず全米で世論が沸騰する前の時点で物語は終わっている。どこからも相手にされない孤独な闘いをして、取材から帰って大統領の関与を確信した記者が原稿をタイプライターで打っているバックにテレビの画面でニクソンの大統領就任宣誓が写っていた。この時期がニクソンの絶頂期であった。
  31. ^ 第2のターニングポイントは、翌1974年4月のニクソンの過去の脱税の事実が明らかになった時で、この時に弾劾賛成が反対を上回ることとなった。
  32. ^ この時「ノー」と発声して反対票を入れた共和党議員はこの年の秋の中間選挙で全員落選している。
  33. ^ フォード副大統領はその回顧録で、この時に提出された録音テープの内容がそれまでのニクソンの説明と全く違うことを知ったのは、8月1日にヘイグ大統領補佐官から急に会いたいとの連絡を受けて彼が副大統領執務室にやって来た時であった、と書いている。この時にヘイグ補佐官、セントクレア大統領顧問弁護士、そしてフォード副大統領の3人は驚くとともに腹が立ったと述べている。3人ともここまでニクソンの無実を信じていたのであった。(フォード(1979年)、17-18P)
  34. ^ 1964年大統領選挙の共和党大統領候補で、民主党のリンドン・ジョンソン大統領に敗れた。共和党保守派の重鎮であった。
  35. ^ この時の上院の共和党議員は42名で、結束すれば三分の二の賛成票を阻止できる数字であったが、共和党議員からも大統領批判が強く、ゴールドウォーター議員はニクソン大統領に「あなたを支持する者は多くても12人で、私の立場は未定です」と語っている。それに対してニクソンは「近く決断するつもりだ。ありがとう。」であった。
  36. ^ 1979年7月1日に出版した著書『猿になりたくなかった猿―体験的メディア論』の文庫化
  37. ^ 当時キッシンジャー大統領補佐官の副官ヘイグへの要旨説明が主な役割であったという話があるが、ウッドワードは否定している。ただ、このことでディープ・スロートはヘイグ副補佐官であるとする人が多かった。
  38. ^ 2人が会って、ウッドワードが記事にした直後にハルデマン補佐官が情報提供者をマーク・フェルトと特定したことは、意外なことに実は『ワシントン・ポスト』内にホワイトハウスへの情報提供者がいたことを示している。後にウッドワードも著書でそのことに触れていた。この事実はこの事件の皮肉な一面である。
  39. ^ ニクソンが裁判で援護してくれたことを受けて、フェルトはウッドワードに「ニクソンは『ワシントン・ポスト』よりもずっと力になってくれた」と語っている。またニクソンはフェルトにお祝いのシャンパンを贈っている(ボブ・ウッドワード(2005年)、p.138 - 150)。
  40. ^ この時にニクソンはその証言の中で「国家の安全保障が脅かされている場合は不法侵入を命じる権限が大統領にある」として「その権限はFBI長官に委ねている」と述べている。ボブ・ウッドワード(2005年)、p.144-145

出典

  1. ^ ウォーターゲート事件に関与した元CIA工作員、死去 - 米国”. www.afpbb.com. 2022年9月30日閲覧。
  2. ^ ワシントン中心部のポトマック川沿いの地区にあり、となりにジョン・F・ケネディ・センターがある。
  3. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.24
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  22. ^ 以下ティム・ワーナー(2008年)、pp.109 - 111 及びティム・ワーナー(2014年)pp.135 - 138 参照
  23. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.200
  24. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.204
  25. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.206
  26. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.207
  27. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.211
  28. ^ 名目上。
  29. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.240
  30. ^ 朝日新聞外報部(1973年)、pp.216 - 217
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  35. ^ ジェラルド・R・フォード(1979年)、pp.131
  36. ^ 「アメリカ50年 ケネディの夢は消えた?」土田宏 著 85P参照
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ウォーターゲート事件

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ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

マッコードは1972年6月19日早朝ワシントンD.C.のウォーターゲートビル内の民主党全国委員会本部への侵入指揮し6つ告発について有罪認めた。彼はその後彼の証言ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンおよび元司法長官ジョン・N・ミッチェルからの圧力によって偽証強いられたされたとする連邦裁判所判事ジョン・シリカへの抗弁書を提出した彼の抗弁書はウォーターゲート事件においてニクソン政権高官多数共謀していたことを明らかにした。なお、マッコードが、"変心"したのは、「精神薄弱の子供をかかえ、無期懲役等し判決には耐えられない全面自供によって少しでも減刑し貰いたい考えたから」と言われている。 1974年圧力の下大統領再選委員会辞職し、マッコードはミシガン大学運動部後援者になったが、不法な賭博関係しプレーヤー金銭与え問題になった。彼はミシガン州立大学ポイントガード、マテーン・クリーヴスに現金800,000ドル以上を与えた

※この「ウォーターゲート事件」の解説は、「ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の解説の一部です。
「ウォーターゲート事件」を含む「ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の記事については、「ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の概要を参照ください。


ウォーターゲート事件

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ジョン・シリカ」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

シリカは、リチャード・ニクソン大統領ホワイトハウスでの会話録音提出するよう命じたことで、一躍有名になった。シリカがこの事件に関わったきっかけは、ウォーターゲートビルへの侵入犯の裁判担当したことだった。シリカは、彼らが単独行動したという主張信じず、仮処分方法用いて最終的な判決前に上層部情報提供するよう強く勧めた暫定判決では、裁判官判決確定する前に被告に数か月間の熟考期間を与えることができる。被疑者ジェームズ・W・マッコード・ジュニアは、ニクソン政権内部人物関与した計画説明する文書提出した1979年シリカはジョン・スタックスとの共著で、ウォーターゲート事件に関わったときのことをまとめた本"To Set the Record Straight"を発表した。 ウォーターゲート事件の真相明らかにしたことで、シリカ1974年1月に『タイム』誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。1977年には、アカデミー・オブ・アチーブメント英語版)のゴールデンプレート賞を受賞した

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ウォーターゲート事件

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マーク・フェルト」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

1972年6月17日深夜ワシントンD.C.民主党本部侵入し盗聴装置取り付けようとした5人の男が逮捕される事件起こった。後にウォーターゲート事件と呼ばれるスキャンダル発端であったフェルトは、ホワイトハウスから中央情報局CIA)を通じてFBIの捜査妨害する動き憤激しとりわけニクソン大統領側近の若い補佐官事件発覚6日後の6月23日CIA副長官使ってFBI長官捜査進展阻害する動き出たことで、事件主犯ホワイトハウス大統領再選委員会にいることに気付いた。 この事件2日後6月19日フェルト以前から面識のあった『ワシントン・ポスト』のウッドワード記者よりFBI直接電話かかってきて、これが事件について2人最初会話であったホワイトハウス関係者としてハワード・ハントの名前が挙がっていることの取材であったその後数回電話があり夏頃には直接自宅訪ねてきたりして「もう電話するな。来るな。他人のいる場所では何もするな。」と追い返しその時に「今後誰にも見られない場所で一対一で話をしよう。」と言った事件直後のこの時期ホワイトハウスFBIとの暗闘続き片方捜査妨害し片方情報リークする異常な事態となっていた。 その後しばらくしてから、ウッドワードより会いたいという連絡がまたあった。この頃季節秋に入りワシントン・ポスト』も他のメディアもウォーターゲート事件の核心掴めず、一方フェルトグレイ長官代行FBIの捜査資料内部文書ホワイトハウスディーン法律顧問(事件主犯)に手渡していたことで憤慨していた時期であった。そして1972年10月ある日深夜密かに会って事件取材していたウッドワード相談応じながら核心触れ部分示唆し取材活動援助したフェルト時折り細かい情報を出すこともあったが、大筋その方向性情報在処指示することが多くウッドワードは必ず情報源がすぐ発覚するような記事にはしなかった。 他のメディア事件軽視して続報控える中、『ワシントン・ポスト』だけが詳細に取材したスクープ記事多く出した。やがて翌1973年3月侵入犯の1人であるマッコードはホワイトハウス関与していることを明らかにし、ウォーターゲート事件が全米揺るがすスキャンダルへと発展したウッドワード情報提供者を「ディープ・スロート」と呼び以後この情報提供者が誰なのかが大きな話題となった。そしてその渦中グレイ長官代理不祥事明るみにされて、長官代理辞任した翌月1973年6月22日フェルトFBI退官した。 ニクソン政権側はかなり早い段階から情報提供者フェルトであることをつかんでいたが、自らの情報源をさらすリスク公表した場合報復危惧してニクソン大統領辞任までそれを明らかにすることはなかった。

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ウォーターゲート事件

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キャサリン・グラハム」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

グラハムは、ポスト紙の歴史の中で重要な時期社長務めたポスト紙は、リチャード・ニクソン大統領辞任につながるウォーターゲート事件の陰謀明らかにする上で重要な役割果たしたグラハムブラッドリー編集長最初に困難を感じたのは、ペンタゴン・ペーパーズ内容発表したときである。ポスト紙の記者ボブ・ウッドワードカール・バーンスタインブラッドリー編集長にウォーターゲート事件の話を持ちかけたとき、グラハムは彼らの調査支持しブラッドリー編集長は他の報道機関がほとんど報じていなかったウォーターゲート事件の記事掲載した。 ウォーターゲート事件に関連してグラハムアメリカジャーナリズム歴史上で最も有名な脅迫の対象となった1972年ニクソン大統領司法長官であるジョン・N・ミッチェルが、記者カール・バーンスタイン今後記事の内容について、"Katie Graham's gonna get her tit caught in a big fat wringer if that's published."(これが発表されたら、ケイティ・グラハムの乳首大きな絞り器に入れられてしまうだろう)と警告したポスト紙は、ブラッドリー編集長が"her tit"(彼女の乳首)という言葉カットしたものの、この発言掲載した。後にグラハムは、「(ミッチェルが)私をケイティと呼ぶのは特に奇妙だった」と語っている。

※この「ウォーターゲート事件」の解説は、「キャサリン・グラハム」の解説の一部です。
「ウォーターゲート事件」を含む「キャサリン・グラハム」の記事については、「キャサリン・グラハム」の概要を参照ください。


ウォーターゲート事件

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大統領図書館」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

1974年8月9日にウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領は、9月6日当時政府公文書管理していた共通役務庁(General Services Administration)の長官アーサー・サンプソンと、ウォータゲートの証拠となるホワイトハウス録音テープを含む大統領資料自分自身管理する協定結んだ。そのため12月19日アメリカ合衆国議会大統領録音記録および資料保存法Presidential Recordings and Materials Preservation Act)を施行したニクソンによる資料廃棄避けるため、ニクソン大統領だけに適用された法である。この法で、国家権力濫用とウォーターゲート事件に関する資料最優先アメリカ国立公文書記録管理局NARA)に保管して一般公開されることが定められた。ニクソン事件関わる録音テープ含めた資料を国に提出したが、この新法なければニクソン死亡時あるいはニクソン命令があれば資料提出5年後1979年にこれらの資料廃棄することが可能であった基本的に大統領任期中に関わった資料はすべてが大統領図書館収容されすべての人が閲覧することが出来る。唯一の例外1990年カリフォルニア州ヨーバ・リンダ完成した私営リチャード・ニクソン大統領生誕地図書館であったニクソン大統領に関する資料は、ニクソン大統領生誕地図書館展示されているものと、ウォーターゲート事件に関係あるとして国に差し押さえられたものに二分されてきた。 国に押収され資料は、大統領録音記録および資料保存法従いNARA管轄下にあるニクソン大統領資料局(ニクソン・プロジェクトとも呼ばれる)が管理しており、ワシントンD.C.郊外NARA新館保存されている。 しかしNARA所蔵されニクソン資料はわずかしか一般公開されておらず、1992年3月に、大統領歴史研究家であるウィスコンシン大学歴史学法学教授消費者主張団体と共にニクソン資料迅速な公開求め訴訟起こしたニクソン個人的な会話記録など一般公開せず彼自身返却されるべきだと主張し翌年個人的な資料第三者プライバシーにかかわる資料がすべてニクソン返却されるまでこれ以上録音テープ公開はしないという裁判長命令出た1994年ニクソン死後論争続いたが、1996年以降多く関係者が既に亡くなっていることから徐々にテープ公開され始めている。 一方ニクソン大統領生涯家族・友人関連する資料ウォーターゲート無関係資料などがあるリチャード・ニクソン生誕地図書館の方は、2007年7月11日まではNARA加わっていなかった。2004年1月議会ニクソン図書館連邦政府運営する議案可決したこれまでワシントンD.C.地域保存義務づけられていたニクソン関連資料他州国家機関移動して良いことになった。そして2005年3月に、合衆国アーキビスト国立公文書記録管理局長)であるアレン・ワインシュタインとリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡交わされ2007年までニクソン図書館NARAによって完全に運営されることとなった。つまり、ニクソン図書館運営財団からNARA移った時点で、メリーランド州NARA新館にあるニクソン資料カリフォルニア州ニクソン図書館移動させることが可能となり、ニクソン図書館名実ともに大統領図書館となるのである2007年7月11日私営ニクソン生誕地図書館は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄大統領図書館変わった

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ウォーターゲート事件

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アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

詳細は「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」、「リチャード・ニクソン」、および「ウォーターゲート事件」を参照 1972年ニクソン共和党大統領候補指名獲得し民主党候補ジョージ・マクガヴァン戦ったマクガヴァンベトナム戦争終わらせることと、国民貧窮層に最低収入確保する制度綱領訴えた。マクガバヴァンは副大統領候補であるトマス・イーグルトンとのこじれ(結局は辞退してサージェント・シュライバーに代わった)や、共和党選挙運動によって受け容れにくい急進派烙印を捺されたことで苦戦し最終結果マクガバン38%対現職ニクソン61%という大差敗北した。 しかしニクソンはウォーターゲート・オフィスビルにある民主党事務所対す盗聴教唆隠蔽し容疑捜査受けたアメリカ合衆国下院司法委員会1974年5月9日ニクソン対する正式かつ公開公聴会開催したニクソン下院弾劾直面して上院での有罪確定に合うよりも辞任する道を選んだ辞任1974年8月9日に有効となったその後継者ジェラルド・R・フォード中道共和党員であり、ニクソン対す先制恩赦発行し事件調査を終わらせた。

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ウォーターゲート事件

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ジョン・ディーン」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説

彼はニクソン政権下でウォーターゲート事件に深く関わり事件発覚直後に、すぐに事件もみ消し加担し重要な証拠FBI長官代行処分させ、CIA使ってFBI事件調査中止させるように画策した。事件発生6日後にニクソン大統領にハルデマン補佐官直接事件について説明して国家安全保障観点からCIA使ってFBIの捜査終わらせる方針決まりディーンCIA副長官要求している(これはFBIから拒否された)。後にこれが早い段階大統領もみ消し工作承認したこととなり、しかもこの時のニクソンとハルデマン補佐官会話(1972年6月23日)を録音したテープ存在明らかになって以降はこの証拠となるテープ公開焦点となって最終局面ニクソン連邦最高裁判決に従ってテープ提出後その事実が明らかになった時点で、ニクソン大統領政治生命を失うこととなった。 またディーンCIA副長官民主党本部不法侵入逮捕されメンバーの生活保障要求してCIA拒否されている。 そして翌年春に上院ウォーターゲート特別委員会最重要参考人のうちの一人になり、訴追免除引き換え議会証言行い、元司法長官ジョン・N・ミッチェル大統領再選委員会責任者)を含む、多く政権幹部事件関与していることを証言しニクソン大統領事件関与初め明らかにした。 なお「彼の委員会での冒頭声明ホワイトハウス録音システム存在明らかになり、録音テープが後にニクソン有罪決定的証拠となった」という言説があるが、彼はもともと録音テープ存在知らず、ホワイトハウススタッフのバターフィールド証言初め録音テープ存在明らかになったもので、ディーン録音テープについて証言したことはない。しかし彼は盗聴されていると感じていたことは述べている。

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