ウォーターゲート事件
別名:ウォーターゲート・スキャンダル
英語:Watergate、Watergate Scandal
1972年に米国で起きた大統領選挙がらみの政治スキャンダル。選挙における共和党の不正工作疑惑が発端となり、第37代大統領リチャード・ニクソンが任期中に大統領職を辞任する騒ぎへと発展した。
「ウォーターゲート」は、事件の舞台となった建物の名称である。米国ワシントンD.C.にある。英語では単にウォーターゲート(Watergate)と言ってこの事件を指す場合もある。
ウォーターゲート事件は第37代大統領リチャード・ニクソンの再選を賭けた選挙において発生した。ニクソン陣営(共和党)が対立候補(民主党)陣営の本部に侵入・盗聴器を設置しようとして捕まり、共和党陣営はこの同事実を揉み消けそうと画策した。不正とその揉み消し工作の疑惑は世論の反発を呼び、リチャード・ニクソンはほどなく辞意を表明することとなった。
ウオーターゲート‐じけん【ウオーターゲート事件】
ウォーターゲート事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 00:46 UTC 版)
ウォーターゲート事件(ウォーターゲートじけん、アメリカ英語: Watergate scandal)とは、1972年に起きたアメリカ合衆国の政治スキャンダル[1]。
注釈
- ^ 1972年6月17日に起こった民主党本部への盗聴装置設置を目的とした侵入事件を当初はウォーターゲート事件と呼んでいた。その後この侵入からさまざまな問題が発覚すると同時に、連鎖的に疑惑や事件が発生し、政界を揺るがすスキャンダルとなった。最終的に大統領の弾劾を発議する政治的な対立を生み、結果として大統領辞任まで至る経過に対して、「ウォーターゲート」という言葉が使われていた。現在では一連の動きすべてがウォーターゲート事件という言葉に集約されている。
- ^ 最初に逮捕された時にメンバーの手帳からハントの名前とホワイトハウスでの彼のデスクの電話番号が書かれていたとする話が資料で散見されるが、1972年6月20日付けワシントンポストの記事では、コルソンの名前があって、かつハントの名前と彼の自宅の電話番号と「HOUSE, WH」の書き込みがあったということであった。事件当時、ハントはホワイトハウス非常勤顧問の職を辞して、ホワイトハウスの中で彼のデスクはなく、むしろコルソンが常勤顧問として勤めており、ホワイトハウス内に事務室があった。手帳にホワイトハウス内の電話番号があったというのはこの2人を混同した結果である
- ^ 最高刑を下すことが多かったため、「マキシマム・ジョン」として知られた人物である。
- ^ 他のメディアが無関心であったのは「ウォーターゲート事件は些細な事柄で、個々の記事が事実であったとしてもそれで権力と争う意味があるのか」といった逡巡があったと言われている。この点は前年国防総省秘密文書をすっぱ抜きニクソン政権と対立したニューヨーク・タイムズも同様であった。唯一の例外はCBSイブニングニュースのウォルター・クロンカイトであった。
- ^ この侵入行為が明らかとなり、エルズバーグ訴追は「政府の不正行為」として却下されることとなった。
- ^ 一般的にはアーリックマンと呼ぶが、一部にはエーリックマンと呼称する資料もある。
- ^ 一般的にはハルデマンと呼ぶが、一部にはホールドマンとも呼ばれて、当時日本ではNHKはホールドマン、民放と新聞はハルデマンと呼称していた。
- ^ 後に駐イラン大使。ホワイトハウスのもみ消しの圧力をはねつけた。
- ^ 陸軍中将だったウォーターズは、ニクソン大統領とは大佐時代の南アメリカ旅行以来の仲で親しいと目されていた。一部ではウォルターズとも呼称されていた。
- ^ この時FBIは、フーヴァー長官が前月の5月2日に死去して内部からマーク・フェルト副長官の昇格という見方もあったが、ニクソンは自分の意になる人材としてグレイを指名した。ただこの時点では議会の承認を得ていないので長官代行という位置づけであった。そしてこの事件に巻き込まれて翌年春に辞職に追い込まれることになった。
- ^ 盗聴工作の資金である、メキシコ人ビジネスマンを隠れ蓑にしたケネス・H・ダールバーグからの秘密献金の存在を隠蔽することが目的だった
- ^ 1973年5月21日に上院外交委員会で、CIA側は「1972年6月23日の会合でハルデマン大統領首席補佐官が大統領の希望によるものだと述べた」と証言している。その一方でその10日後の5月31日に上院歳出委員会小委員会に出席したハルデマンは「1972年6月23日の会合は大統領の指示に従った国益に沿うもので、もみ消し工作ではない」と証言している。
- ^ グレイはこの後7月6日に大統領へ電話をかけて、「ホワイトハウスに関係しそうだ」と警告したとされている。
- ^ 後にウォーターズはジェームズ・R・シュレシンジャー長官(ヘルムズの後任として1973年2月に就任)と相談した上で、「CIAのメキシコでの活動には無関係」だと捜査当局に証言した。
- ^ たとえばマグルーダーは、「ニクソンがミッチェルにローレンス・R・オブライエン民主党全国委員長の活動情報収集のための侵入指揮を命令した」のを立ち聞きしたなど、様々な報告書を提出している。その中身は関与を認めているものもあれば、無関係だというものもあり、未だに真相の全ては明らかになっていない。
- ^ 「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれるグループは実は2種類あり、1つは直接民主党本部に侵入した及びそれを指示したメンバー。マッコードやハント、リディらである。もう1つはニクソン大統領を取り巻く補佐官や大統領再選委員会のメンバーで捜査妨害をした7人、ミッチェル、ハルデマン、アーリックマン、コルソンらである。
- ^ そもそもディーン報告と言えるようなものはなく、ディーンからの話をアーリックマンが大統領に口頭で説明したものであったことが、1973年5月16日付けニューヨーク・タイムズにすっぱ抜かれている。
- ^ 本来の担当者のシルバート連邦地方検事局事件捜査主任検事やヘンリー・E・ピーターセン刑事局担当司法次官補などは、捜査内容をホワイトハウスに報告していたとして不信を買っていた。FBIは長らく権勢を振るったフーヴァー長官が事件発覚直前の1972年5月に死去、ニクソンの友人であるL・パトリック・グレイ(軍人)が長官代行だったため、ホワイトハウスの圧力に弱いと思われた。
- ^ 日本でもアメリカ軍放送のFENが中継した。
- ^ これは正式な証言ではなく、委員会スタッフ・メンバーとのインタビューでの発言だった。
- ^ 7月16日に公聴会でバーターフィールドが証言したという説もある。「アメリカ50年 ケネディの夢は消えた?」土田宏 著 84P参照
- ^ その後のテープでの聞き取り調査から、ニクソンには無駄に長話をするクセがあるのと、大統領の品性が疑われるほど下品な言動があることが分かった。
- ^ または「土曜夜の大虐殺」とも言われ、当時はこの言葉の方が多く使われた。
- ^ ちょうどこの時期に、汚職で辞任したアグニュー副大統領の後任として当時下院院内総務であったジェラルド・R・フォードがニクソンから指名を受けていた。まだ8日前のことであった。後にフォードは回顧録で、ニクソンは事件に関する事実が明らかになれば自分は全く関係無いことが分かるだろうとフォードに語り、「ニクソンはシロだと信じていた」と述べてその姿勢は辞任直前まで変わらなかった。
- ^ 後任としてジェラルド・R・フォード下院院内総務がニクソン大統領の指名を受け、議会の承認を受けて就任した。ニクソン辞任後に大統領に昇格。
- ^ この記載内容についてはジョン・C・ステニス上院軍事委員長が内容を保証したが、ステニスはニクソンとは親しい間柄であるばかりか高齢のため耳が不自由だった。
- ^ その多くはニクソン自身が発した下品な言葉で、放送禁止用語も含まれていた。
- ^ シリカ判事の求めた9本のテープのうち、2本が見つからなかったとの理由で7本の提出となった。
- ^ スティーブ・ブル副補佐官とウッズ秘書がキャンプ・デービッドで消去したのではないかと、ケスラーは述べている
- ^ ワシントンポストの2人の記者の取材活動を、両者の著書を元に描いた映画『大統領の陰謀』は、まだ事件が注目されず全米で世論が沸騰する前の時点で物語は終わっている。どこからも相手にされない孤独な闘いをして、取材から帰って大統領の関与を確信した記者が原稿をタイプライターで打っているバックにテレビの画面でニクソンの大統領就任宣誓が写っていた。この時期がニクソンの絶頂期であった。
- ^ 第2のターニングポイントは、翌1974年4月のニクソンの過去の脱税の事実が明らかになった時で、この時に弾劾賛成が反対を上回ることとなった。
- ^ この時「ノー」と発声して反対票を入れた共和党議員はこの年の秋の中間選挙で全員落選している。
- ^ フォード副大統領はその回顧録で、この時に提出された録音テープの内容がそれまでのニクソンの説明と全く違うことを知ったのは、8月1日にヘイグ大統領補佐官から急に会いたいとの連絡を受けて彼が副大統領執務室にやって来た時であった、と書いている。この時にヘイグ補佐官、セントクレア大統領顧問弁護士、そしてフォード副大統領の3人は驚くとともに腹が立ったと述べている。3人ともここまでニクソンの無実を信じていたのであった。(フォード(1979年)、17-18P)
- ^ 1964年大統領選挙の共和党大統領候補で、民主党のリンドン・ジョンソン大統領に敗れた。共和党保守派の重鎮であった。
- ^ この時の上院の共和党議員は42名で、結束すれば三分の二の賛成票を阻止できる数字であったが、共和党議員からも大統領批判が強く、ゴールドウォーター議員はニクソン大統領に「あなたを支持する者は多くても12人で、私の立場は未定です」と語っている。それに対してニクソンは「近く決断するつもりだ。ありがとう。」であった。
- ^ 1979年7月1日に出版した著書『猿になりたくなかった猿―体験的メディア論』の文庫化
- ^ 当時キッシンジャー大統領補佐官の副官ヘイグへの要旨説明が主な役割であったという話があるが、ウッドワードは否定している。ただ、このことでディープ・スロートはヘイグ副補佐官であるとする人が多かった。
- ^ 2人が会って、ウッドワードが記事にした直後にハルデマン補佐官が情報提供者をマーク・フェルトと特定したことは、意外なことに実は『ワシントン・ポスト』内にホワイトハウスへの情報提供者がいたことを示している。後にウッドワードも著書でそのことに触れていた。この事実はこの事件の皮肉な一面である。
- ^ ニクソンが裁判で援護してくれたことを受けて、フェルトはウッドワードに「ニクソンは『ワシントン・ポスト』よりもずっと力になってくれた」と語っている。またニクソンはフェルトにお祝いのシャンパンを贈っている(ボブ・ウッドワード(2005年)、p.138 - 150)。
- ^ この時にニクソンはその証言の中で「国家の安全保障が脅かされている場合は不法侵入を命じる権限が大統領にある」として「その権限はFBI長官に委ねている」と述べている。ボブ・ウッドワード(2005年)、p.144-145
出典
- ^ “ウォーターゲート事件に関与した元CIA工作員、死去 - 米国”. www.afpbb.com. 2022年9月30日閲覧。
- ^ ワシントン中心部のポトマック川沿いの地区にあり、となりにジョン・F・ケネディ・センターがある。
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- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、pp.107 - 108
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- ^ a b c 朝日新聞外報部(1973年)、pp.150 - 151
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- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、pp.40 - 43
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- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、pp.60 - 61
- ^ a b 朝日新聞外報部(1973年)、pp.62 - 66
- ^ 以下ティム・ワーナー(2008年)、pp.109 - 111 及びティム・ワーナー(2014年)pp.135 - 138 参照
- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.200
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- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.206
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- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.211
- ^ 名目上。
- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.240
- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、pp.216 - 217
- ^ 朝日新聞外報部(1973年)、p.288
- ^ 桜井元雄(2006年)、p.405
- ^ a b ジェラルド・R・フォード(1979年)、pp.130
- ^ ジェラルド・R・フォード(1979年)、pp.130-131
- ^ ジェラルド・R・フォード(1979年)、pp.131
- ^ 「アメリカ50年 ケネディの夢は消えた?」土田宏 著 85P参照
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- ^ ニューズウィーク1991年6月20日, p. 39.
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ウォーターゲート事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 05:06 UTC 版)
「ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
マッコードは1972年6月19日早朝、ワシントンD.C.のウォーターゲートビル内の民主党全国委員会本部への侵入を指揮し、6つの告発について有罪を認めた。彼はその後彼の証言がホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンおよび元司法長官ジョン・N・ミッチェルからの圧力によって偽証を強いられたされたとする、連邦裁判所判事ジョン・シリカへの抗弁書を提出した。彼の抗弁書はウォーターゲート事件においてニクソン政権の高官が多数共謀していたことを明らかにした。なお、マッコードが、"変心"したのは、「精神薄弱の子供をかかえ、無期懲役に等しい判決には耐えられない。全面自供によって少しでも減刑して貰いたいと考えたから」と言われている。 1974年に圧力の下大統領再選委員会を辞職し、マッコードはミシガン大学の運動部の後援者になったが、不法な賭博に関係しプレーヤーに金銭を与え問題になった。彼はミシガン州立大学のポイントガード、マテーン・クリーヴスに現金800,000ドル以上を与えた。
※この「ウォーターゲート事件」の解説は、「ジェームズ・W・マッコード・ジュニア」の解説の一部です。
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ウォーターゲート事件
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「ジョン・シリカ」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
シリカは、リチャード・ニクソン大統領にホワイトハウスでの会話の録音を提出するよう命じたことで、一躍有名になった。シリカがこの事件に関わったきっかけは、ウォーターゲートビルへの侵入犯の裁判を担当したことだった。シリカは、彼らが単独で行動したという主張を信じず、仮処分の方法を用いて、最終的な判決の前に上層部の情報を提供するよう強く勧めた。暫定判決では、裁判官は判決が確定する前に、被告に数か月間の熟考期間を与えることができる。被疑者のジェームズ・W・マッコード・ジュニアは、ニクソン政権内部の人物が関与した計画を説明する文書を提出した。 1979年、シリカはジョン・スタックスとの共著で、ウォーターゲート事件に関わったときのことをまとめた本"To Set the Record Straight"を発表した。 ウォーターゲート事件の真相を明らかにしたことで、シリカは1974年1月に『タイム』誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。1977年には、アカデミー・オブ・アチーブメント(英語版)のゴールデンプレート賞を受賞した。
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ウォーターゲート事件
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「マーク・フェルト」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
1972年6月17日深夜にワシントンD.C.の民主党本部に侵入し、盗聴装置を取り付けようとした5人の男が逮捕される事件が起こった。後にウォーターゲート事件と呼ばれるスキャンダルの発端であった。フェルトは、ホワイトハウスから中央情報局(CIA)を通じてFBIの捜査を妨害する動きに憤激し、とりわけニクソン大統領側近の若い補佐官が事件発覚の6日後の6月23日にCIA副長官を使ってFBI長官に捜査の進展を阻害する動きに出たことで、事件の主犯がホワイトハウスと大統領再選委員会にいることに気付いた。 この事件の2日後の6月19日、フェルトに以前から面識のあった『ワシントン・ポスト』のウッドワード記者よりFBIに直接電話がかかってきて、これが事件についての2人の最初の会話であった。ホワイトハウス関係者としてハワード・ハントの名前が挙がっていることの取材であった。その後数回電話があり夏頃には直接自宅に訪ねてきたりして「もう電話するな。来るな。他人のいる場所では何もするな。」と追い返し、その時に「今後は誰にも見られない場所で一対一で話をしよう。」と言った。事件直後のこの時期はホワイトハウスとFBIとの暗闘が続き、片方が捜査を妨害し、片方が情報をリークする異常な事態となっていた。 その後しばらくしてから、ウッドワードより会いたいという連絡がまたあった。この頃は季節が秋に入り『ワシントン・ポスト』も他のメディアもウォーターゲート事件の核心が掴めず、一方フェルトはグレイ長官代行がFBIの捜査資料の内部文書をホワイトハウスのディーン法律顧問(事件の主犯)に手渡していたことで憤慨していた時期であった。そして1972年10月のある日の深夜に密かに会って、事件を取材していたウッドワードの相談に応じながら核心に触れる部分を示唆し、取材活動を援助した。フェルトは時折り細かい情報を出すこともあったが、大筋はその方向性と情報の在処を指示することが多く、ウッドワードは必ず情報源がすぐ発覚するような記事にはしなかった。 他のメディアが事件を軽視して続報を控える中、『ワシントン・ポスト』だけが詳細に取材したスクープ記事を多く出した。やがて翌1973年3月に侵入犯の1人であるマッコードはホワイトハウスが関与していることを明らかにし、ウォーターゲート事件が全米を揺るがすスキャンダルへと発展した。ウッドワードは情報提供者を「ディープ・スロート」と呼び、以後この情報提供者が誰なのかが大きな話題となった。そしてその渦中にグレイ長官代理の不祥事も明るみにされて、長官代理が辞任した翌月の1973年6月22日にフェルトもFBIを退官した。 ニクソン政権側はかなり早い段階から情報提供者がフェルトであることをつかんでいたが、自らの情報源をさらすリスクや公表した場合の報復を危惧して、ニクソンの大統領辞任までそれを明らかにすることはなかった。
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ウォーターゲート事件
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「キャサリン・グラハム」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
グラハムは、ポスト紙の歴史の中で重要な時期に社長を務めた。ポスト紙は、リチャード・ニクソン大統領の辞任につながるウォーターゲート事件の陰謀を明らかにする上で、重要な役割を果たした。 グラハムとブラッドリー編集長が最初に困難を感じたのは、ペンタゴン・ペーパーズの内容を発表したときである。ポスト紙の記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインがブラッドリー編集長にウォーターゲート事件の話を持ちかけたとき、グラハムは彼らの調査を支持し、ブラッドリー編集長は他の報道機関がほとんど報じていなかったウォーターゲート事件の記事を掲載した。 ウォーターゲート事件に関連して、グラハムはアメリカのジャーナリズムの歴史上で最も有名な脅迫の対象となった。1972年、ニクソン大統領の司法長官であるジョン・N・ミッチェルが、記者のカール・バーンスタインに今後の記事の内容について、"Katie Graham's gonna get her tit caught in a big fat wringer if that's published."(これが発表されたら、ケイティ・グラハムの乳首は大きな油絞り器に入れられてしまうだろう)と警告した。ポスト紙は、ブラッドリー編集長が"her tit"(彼女の乳首)という言葉をカットしたものの、この発言を掲載した。後にグラハムは、「(ミッチェルが)私をケイティと呼ぶのは特に奇妙だった」と語っている。
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ウォーターゲート事件
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「大統領図書館」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
1974年8月9日にウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領は、9月6日に当時政府公文書を管理していた共通役務庁(General Services Administration)の長官アーサー・サンプソンと、ウォータゲートの証拠となるホワイトハウスの録音テープを含む大統領資料を自分自身が管理する協定を結んだ。そのため12月19日にアメリカ合衆国議会は大統領録音記録および資料保存法(Presidential Recordings and Materials Preservation Act)を施行した。ニクソンによる資料廃棄を避けるため、ニクソン大統領だけに適用された法である。この法で、国家権力の濫用とウォーターゲート事件に関する資料を最優先でアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管して一般公開されることが定められた。ニクソンは事件に関わる録音テープも含めた資料を国に提出したが、この新法がなければ、ニクソンの死亡時あるいはニクソンの命令があれば資料提出5年後の1979年にこれらの資料を廃棄することが可能であった。 基本的には大統領が任期中に関わった資料はすべてが大統領図書館に収容され、すべての人が閲覧することが出来る。唯一の例外が1990年にカリフォルニア州ヨーバ・リンダに完成した、私営のリチャード・ニクソン大統領生誕地図書館であった。ニクソン大統領に関する資料は、ニクソン大統領生誕地図書館に展示されているものと、ウォーターゲート事件に関係あるとして国に差し押さえられたものに二分されてきた。 国に押収された資料は、大統領録音記録および資料保存法に従い、NARAの管轄下にあるニクソン大統領資料局(ニクソン・プロジェクトとも呼ばれる)が管理しており、ワシントンD.C.郊外のNARA新館に保存されている。 しかしNARAに所蔵されるニクソン資料はわずかしか一般公開されておらず、1992年3月に、大統領歴史研究家であるウィスコンシン大学の歴史学・法学の教授が消費者主張団体と共に、ニクソン資料の迅速な公開を求める訴訟を起こした。ニクソンは個人的な会話記録などは一般公開せず彼自身に返却されるべきだと主張し、翌年個人的な資料や第三者のプライバシーにかかわる資料がすべてニクソンに返却されるまでこれ以上の録音テープの公開はしないという裁判長命令が出た。1994年のニクソンの死後も論争が続いたが、1996年以降多くの関係者が既に亡くなっていることから徐々にテープが公開され始めている。 一方、ニクソン大統領の生涯や家族・友人に関連する資料、ウォーターゲートと無関係の資料などがあるリチャード・ニクソン生誕地図書館の方は、2007年7月11日まではNARAに加わっていなかった。2004年1月に議会はニクソン図書館を連邦政府で運営する議案を可決した。これまでワシントンD.C.地域に保存が義務づけられていたニクソン関連資料を他州の国家機関へ移動しても良いことになった。そして2005年3月に、合衆国アーキビスト(国立公文書記録管理局長)であるアレン・ワインシュタインとリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、2007年までにニクソン図書館がNARAによって完全に運営されることとなった。つまり、ニクソン図書館の運営が財団からNARAに移った時点で、メリーランド州のNARA新館にあるニクソン資料をカリフォルニア州のニクソン図書館へ移動させることが可能となり、ニクソン図書館は名実ともに大統領図書館となるのである。2007年7月11日に私営のニクソン生誕地図書館は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の大統領図書館に変わった。
※この「ウォーターゲート事件」の解説は、「大統領図書館」の解説の一部です。
「ウォーターゲート事件」を含む「大統領図書館」の記事については、「大統領図書館」の概要を参照ください。
ウォーターゲート事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 07:20 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
詳細は「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」、「リチャード・ニクソン」、および「ウォーターゲート事件」を参照 1972年、ニクソンは共和党の大統領候補指名を獲得し、民主党候補のジョージ・マクガヴァンと戦った。マクガヴァンはベトナム戦争を終わらせることと、国民の貧窮層に最低収入を確保する制度を綱領で訴えた。マクガバヴァンは副大統領候補であるトマス・イーグルトンとのこじれ(結局は辞退してサージェント・シュライバーに代わった)や、共和党の選挙運動によって受け容れにくい急進派と烙印を捺されたことで苦戦し、最終結果はマクガバン38%対現職のニクソン61%という大差で敗北した。 しかしニクソンはウォーターゲート・オフィスビルにある民主党事務所に対する盗聴を教唆し隠蔽した容疑で捜査を受けた。アメリカ合衆国下院司法委員会は1974年5月9日にニクソンに対する正式かつ公開の公聴会を開催した。ニクソンは下院の弾劾に直面して上院での有罪確定に合うよりも辞任する道を選んだ。辞任は1974年8月9日に有効となった。その後継者ジェラルド・R・フォードは中道共和党員であり、ニクソンに対する先制的恩赦を発行し、事件調査を終わらせた。
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ウォーターゲート事件
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「ジョン・ディーン」の記事における「ウォーターゲート事件」の解説
彼はニクソン政権下でウォーターゲート事件に深く関わり、事件発覚直後に、すぐに事件もみ消しに加担し、重要な証拠をFBI長官代行に処分させ、CIAを使ってFBIの事件調査を中止させるように画策した。事件発生の6日後にニクソン大統領にハルデマン補佐官が直接事件について説明して、国家安全保障の観点からCIAを使ってFBIの捜査を終わらせる方針が決まり、ディーンがCIA副長官に要求している(これはFBIから拒否された)。後にこれが早い段階で大統領がもみ消し工作を承認したこととなり、しかもこの時のニクソンとハルデマン補佐官の会話(1972年6月23日)を録音したテープの存在が明らかになって以降はこの証拠となるテープの公開が焦点となって、最終局面でニクソンが連邦最高裁の判決に従ってテープを提出後にその事実が明らかになった時点で、ニクソン大統領は政治生命を失うこととなった。 またディーンはCIA副長官に民主党本部に不法侵入し逮捕されたメンバーの生活保障を要求してCIAに拒否されている。 そして翌年春に上院ウォーターゲート特別委員会の最重要参考人のうちの一人になり、訴追免除と引き換えに議会証言を行い、元司法長官ジョン・N・ミッチェル(大統領再選委員会責任者)を含む、多くの政権幹部が事件に関与していることを証言し、ニクソン大統領の事件関与を初めて明らかにした。 なお「彼の委員会での冒頭声明でホワイトハウスの録音システムの存在が明らかになり、録音テープが後にニクソン有罪の決定的証拠となった」という言説があるが、彼はもともと録音テープの存在は知らず、ホワイトハウススタッフのバターフィールドの証言で初めて録音テープの存在が明らかになったもので、ディーンが録音テープについて証言したことはない。しかし彼は盗聴されていると感じていたことは述べている。
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「ウォーターゲート事件」の例文・使い方・用例・文例
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