土曜日の夜の虐殺
土曜日の夜の虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:52 UTC 版)
「ウォーターゲート事件」の記事における「土曜日の夜の虐殺」の解説
1973年10月20日の土曜日。この日、ニクソンはテープ提出要求を大統領特権で拒絶し、提出命令を無効にするようリチャードソン司法長官経由でコックスに命じた。コックス特別検察官はこれを拒否して記者会見を行い、あくまで録音テープの提出を要求した。ニクソンは次にコックスを解任することを画策、この土曜日の夜にリチャードソン司法長官に対して解任を命令したが、リチャードソンはこの命令を受け入れることを拒否し辞任。ニクソンは次にウィリアム・D・ラッケルズハウス(英語版)司法副長官(英語版)に対しても同じ命令を行ったが、ラッケルズハウス副長官もこれを拒否して辞任した。結局、司法省No.3のロバート・H・ボーク訟務長官が大統領命令に背くことができずコックスを解任した。 この出来事が土曜日の夜であったので、後に土曜日の夜の虐殺と呼ばれることとなった。特別検察官を力で押さえつけたと同時に、閣僚でもあった司法長官と次官を抗議辞任に追いやったことは大統領の行き過ぎで止まる話ではなくなり、ニクソン非難の嵐が全米に吹き荒れることとなり、翌週の火曜日までに下院に「ニクソンの弾劾要求ないし弾劾措置を取れるかどうか検討する案件が22件にのぼった」という。この時期から議会で大統領弾劾の動きが始まることとなる。 それは、この一連の流れからテープには、ニクソンにとって相当都合が悪い会話があり、大統領が深く関わっていた事実を示すものがあるに違いないという確信を多くの国民に植え付けることになった。結局ニクソンは10月23日にはシリカ判事の提出命令に従うことを言明せざるを得なくなった。 1973年11月17日、フロリダ州オークランドで、ニクソンは400人の記者の前で自らの行為に対する弁明を行った。「私はペテン師ではない(I am not a crook.)」という有名なセリフは、この時の弁明で生まれたものである。 特別検察官の後任には、レオン・ジャウォスキーが選ばれた。しかしこの一連の動きで大統領の資質まで問われることとなり、10月10日に州知事時代の収賄及び脱税が発覚したスピロ・アグニュー副大統領が辞任する事態が生じて、ニクソン大統領への支持は急速に落ち込み、自身の政治的基盤を崩壊させることにもつながっていった。
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