政治やイデオロギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 18:40 UTC 版)
1981年8月3日、連邦航空管制官組合(英語版)(Professional Air Traffic Controllers Organization、PATCO)の構成員である航空管制官1万人以上がストライキを行った上に、職場復帰命令に従わなかったとして大統領令により一斉解雇された。それまではタフト=ハートリー法に抵触する連邦公務員等のストライキが黙認されてきたのに対し、断固たる措置をとった大統領は就任して間もない共和党のロナルド・レーガンであった。同年11月、ヨルダン国王・フセイン1世が訪米した際、チェイスンズはレーガンのキッチン・キャビネットに関与しているとして、ワシントン・ポストが報じた。閉店後の1996年、チェイスンズはレーガンの85歳の誕生日を祝うためにケータリングの場として一時的に営業を再開し、映画界や政界の大物たちが集まった。数年前からレーガンがアルツハイマー病を患っていたのに夫人が配慮し、大勢で集まるのを避けてプライベート形式にしたのだというが、当のレーガン本人は自宅に閉じこもったままで会場には姿を見せなかった。 「ロナルド・レーガン#アルツハイマー病」も参照 1982年3月のタイムで、かつて共和党のニクソン政権とフォード政権において最重要ポストを務めたヘンリー・キッシンジャーが、ウォーターゲート事件やニクソンの人柄を振り返り寄稿した際に、チェイスンズを訪れたことに触れている。アメリカ大統領としては前代未聞の引責辞任をしたニクソンのよき理解者であるキッシンジャーは、当時を回想する中で事件が起こる前の1970年の夏の土曜の午後のことを語った。キッシンジャーがロサンゼルス近郊のヨーバリンダにあるニクソンの生家へ案内される前に、ニクソンとはかねてよりの親友で行動を共にしていたキューバ系移民の銀行家・ビービー・レボゾ(英語版)と一緒にチェイスンズに立ち寄ってディナーに招かれたという。「リチャード・ニクソン大統領図書館および博物館」のサイトで公表されている日誌では同年8月1日土曜の記録と一致する。その後も1972年7月、ワシントン・ポストに事件をすっぱ抜かれて窮地に立たされている最中に、ニクソンはチェイスンズを訪れて何事もなかったようにサーロインステーキを注文し、牛肉の価格の上昇の影響で値上げを余儀なくされているレストランの近況を語った。このときニクソンに同伴していたのはキッシンジャー、レボゾに加えて、やはりニクソンの親友で発明家・共和党の政治活動家のロバート・アブプラナルプ(英語版)であったとニューヨーク・タイムズが報じた。 デイヴ・チェイスンの死から4か月後の1973年10月、ニクソンによる「土曜日の夜の虐殺」の直後に、前述のハワード・ヒューズが元FBI・CIAで彼の右腕であるロバート・マヒウ(英語版)に宛てた指示のメモの存在が公表され、ニューヨーク・タイムズがこれを報じた。この時と1975年3月の同紙による報道で、ニクソンとヒューズの資金の受け渡しがレボゾを介していたことが明らかにされた。マヒウは1970年12月にヒューズから解任されるが、キッシンジャーの回想と重なる同年8月、マヒウの解任に先立ってCIA工作官のエヴェレット・ハワード・ハントを雇い入れていた。ニューヨーク・タイムズはいずれの報道においても、ヒューズのラスベガス開発対米国司法省反トラスト局(英語版)、ラスベガス開発に影響を及ぼすネバダでの核実験の中止を求めていたヒューズ対アメリカ原子力委員会といった、二重の対立への対策がニクソンを支援して抱き込んだ動機としている。2005年になってCBSが、マヒウはヒューズに17年間雇われていたにもかかわらず、隠士となった彼を見たことがないに等しかったのを明らかにしている。 1983年、「ディスコの女王」と称されるドナ・サマーは、賃金のジェンダー・ギャップやシングルマザーの現状を訴え、ミュージック・ビデオでフェミニズム色を打ち出した楽曲「情熱物語 (She Works Hard for the Money)」をリリースした。この作品はチェイスンズで女性用トイレの係員として働く女性、オネッタ・ジョンソン(Onetta Johnson)と出会ったサマーの実体験に着想を得て制作された。サマーはグラミー賞のアフターパーティーの会場としてチェイスンズを訪れていた。ジョンソンは女性客のコーディネーターの役割もあり、セレブたちの不意な鼻毛の処理まで任されるのを日課にしていたという。 1985年6月に米国各地の資金調達ディナーの類いの話題を数多く取り上げたロサンゼルス・タイムズの紙面の中で、チェイスンズはたびたび登場する。 まず最初に出てくるのが、W・M・ケック天文台に名を残す石油王のウィリアム・マイロン・ケック(英語版)の孫で実業家・慈善家のウィリアム・マイロン・ケックJr.が主催する、共和党の上院議員・大統領候補のボブ・ドールのための政治資金パーティーであった。 次がロサンゼルス郡地方検事のアイラ・ライナー(英語版)のためのファンドレイジングで、当時騒がれていたリチャード・ラミレスによる凶悪事件が激化する直前の時期だった。のちに有罪となるラミレスは同年8月に逮捕され翌9月にはライナーによって起訴された。しかし、1982年に『トワイライトゾーン/超次元の体験』の撮影中の事故で起訴されたジョン・ランディスらは、1987年5月に無罪となった。加えてライナーが起訴したマクマーティン保育園裁判が無罪になったことで批判を浴び、1990年の州検事総長の民主党予備選挙で敗北。さらにロドニー・キング事件も無罪になって1992年の地方検事の再選からも脱落した。 元祖「政治コンサルタント」のジョー・セレルの50歳の誕生日を祝うパーティーの会場にもなった。主催者はのちにサンフランシスコ市長となる民主党のカリフォルニア州議会議長・ウィリー・ブラウンと共和党のカリフォルニア州議会上院議員・ウィリアム・キャンベル(英語版)であった。セレルはもともと南カリフォルニア大学の民主党員で、ジョン・F・ケネディの大統領選ではカリフォルニアのキャンペーン・マネージャーを務めた。
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