大統領弾劾発議と辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 10:09 UTC 版)
「ウォーターゲート事件」の記事における「大統領弾劾発議と辞職」の解説
ニクソン大統領の弾劾の動きが野党の民主党はともかく、与党共和党から出たのは、1973年5月6日にボブ・ドール共和党全国委員長が「大統領が知っていたか、介入の証拠があれば大統領弾劾も避けられない」と語ってからである。マッコード発言から1ヶ月半後、調査の結果新たな進展があったとした4月17日から2週間余り、ハルデマン、アーリックマン両補佐官を辞めさせてから1週間近く経てからであった。 しかし大統領弾劾と言っても、それ以前はアメリカ合衆国の歴史でも100年前に1例あるだけで、弾劾に値する行動の検証が難しく、弾劾を主張する議員ですら、実際に弾劾できるという確信は誰も持っていなかった。この年の1月に大統領の第2期目に入り、ベトナム和平の達成で、大統領支持率は68%の最高を記録していた。 単に盗聴を指示した、あるいはもみ消しに関与しただけでは弾劾に多数の賛成を得ることは難しいことであった。後にクリントン大統領が不倫関係をホワイトハウスの大統領執務室で行っていても弾劾に至らなかったことも同じで、単なる不正行為、不道徳行為だけでは、アメリカ合衆国大統領の座から引きずり降ろすことなど出来ない話であった。それ故に、ニクソン大統領がもし1973年4月の時点で「もみ消し工作」を自ら認めていたら、その後の展開は全く違ったものになって、弾劾を受けることは無かったと言われている。 しかし事態が大きく変わり、ターニングポイントとなったのは、「土曜日の夜の虐殺」からで、これが世界一と自認する民主主義国のトップが行う、法律の上からも道徳の上からも許される行動なのかという疑問を多くの人が抱いたからである。虐殺という言葉が使われたこと自体、異常なことであった。これを受けて10月23日に下院に大統領弾劾決議案が提出されて、30日に下院司法委員会の予備審査にかけられることとなった。ニクソンの支持率はコックスを解任した10月末の時点で30%以下に落ち込んでいた。そして翌年8月に辞任するまで支持率が回復することはなかった。 しかもウォーターゲート事件とはまた違うところで別の不正行為が発覚したこと、アグニュー副大統領が自身の不正行為で辞任したことで数々のスキャンダルに覆われて史上最大の汚職政権、と言われるまでになった。アグニューの後任にクリーンなフォードが指名を受けて、議会の承認を得るための公聴会に出席した際に、ある議員が「あなたは間違いなく、近いうちに大統領になる」と断言する始末であった。1973年10月に指名されたフォードが副大統領になる12月までは奇妙なほど休戦状態であったが、副大統領に就任した後は議会の弾劾に向けての行動が年明けから活発になっていく。しかしこの1973年11月の時点では大統領弾劾による解任に賛成は37%で反対は55%という世論調査の数字であり、いかに支持できぬとしても選ばれた大統領を任期途中で弾劾し解任することの抵抗は大きかったのである。 その一方で1974年3月1日、大統領の7人の元側近(ハルデマン、アーリックマン、ミッチェル、コルソン、ゴードン・C・ストローン、ロバート・C・マーディアンおよびケネス・W・パーキンソン)がウォーターゲート事件の捜査妨害で起訴された。大陪審は、さらに秘密にニクソンを起訴されていない共謀者(犯罪の共謀は一つの刑事罪名である)として指名した。ディーン、マグルーダー、及び他の人物は既に有罪を認めていた。 こうした中で4月に入ってニクソンの過去における脱税行為が明らかになり、1974年5月の世論調査で弾劾に賛成48%、反対37%でこの時に初めて弾劾賛成が多数派となった。この賛否が逆転した原因は、このニクソンの脱税問題と録音テープの速記録の公表で大統領が普段の会話で汚い言葉を使っていることと策謀をめぐらしている様子がまざまざと示されて国民がショックを受けて、ニクソン自身の道徳性の欠如を決定的に印象付けたのであった。ニクソン大統領はますます窮地に追いやられていった。
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