大統領引退とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 06:50 UTC 版)
「フアード・シハーブ」の記事における「大統領引退とその後」の解説
1964年、シハーブは、大統領にとどまることを求められたが、選挙結果では、反シハーブ勢力が多数を占めるにいたった。シハーブもまた、憲法を延長しての大統領の座にとどまることを否定し、大統領選出選挙で圧倒的多数を得たシャールル・ヘローが次の大統領に就任した。しかし、シハーブは、ヘローの政権運営に不満を抱くようになり、禅譲に対して後悔した。ヘローの政治スタイルは、封建的であり、また、パレスチナ・ゲリラがレバノンの治安を悪化させたからである。 1970年の大統領選挙の際には、再びの出馬が求められたが、シハービストのリーダーであったイリヤース・サルキースを後継者に指名した。だが、サルキースは、スレイマン・フランジーヤに1票差で議会内の選挙で敗退したため、シハーブの後継にサルキースが就任することは事実上不可能となった。。 シハーブは1973年4月、ベイルートで死去した。71歳であった。 1976年、シハーブの後継者であるサルキースが、レバノン内戦の沈静化のために、大統領に選出されるが、既に、シハーブが理想とした中立政策と国内への対外勢力による干渉は、不可能となっていた。バアス党を基盤とするシリア、レバノンをキリスト教国にとどめておくことで「中東の例外」を回避したいイスラエル、故国の土地を奪われたパレスチナの介入が既に避けられない状況にまで、レバノンは国内が混乱した。そのことを考えれば、シハーブの評価は、正しく評価されても良いであろう。 公職先代:ビシャーラ・アル=フーリーカミール・シャムーン レバノン共和国大統領(代行)1952第10代:1958 - 1964 次代:カミール・シャムーンシャルル・ヘロー(英語版)
※この「大統領引退とその後」の解説は、「フアード・シハーブ」の解説の一部です。
「大統領引退とその後」を含む「フアード・シハーブ」の記事については、「フアード・シハーブ」の概要を参照ください。
- 大統領引退とその後のページへのリンク