護国寺 概要

護国寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 07:23 UTC 版)

概要

天和元年(1681年)2月7日、徳川綱吉は母、桂昌院の願いをうけ、高崎大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じた。

本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。江戸時代には浅草寺回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があった[1]

境内には富士塚の「音羽富士」がある。

護持院

神田にあった護持院は享保2年の火災で焼失し、跡地が火除地(護持院ヶ原)とされたため、護国寺の地に移転してきた。護持院は筑波の知足院中禅寺の江戸別院で、新義真言宗僧録であり、新義真言宗で最も格式の高い寺院であった。護国寺の東側の地(現在護国寺本坊のある付近)を占め、護持院住職が護国寺住職を兼ねるという変則的な形になった[2]

護持院は明治時代に神仏分離により打撃を受けて廃寺となり、旧護持院境内は護国寺のものであることが認められた。

明治維新後

護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られた。これは1873年明治6年)の明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。また、西側の5千坪は陸軍用墓地となり、境内は2万坪ほどに縮小した。(現在、陸軍墓地は護国寺墓地の一角に整理されている)

稚瑞照彦尊の生母、葉室光子も1873年に亡くなるが、皇族墓地に入れず、護国寺境内に葬られた。

のち、境内に三条実美山縣有朋大隈重信らの墓所が造られるが、これは明治初年に当時の政府高官へ働きかけ、墓地の新設を認められたことによるという[3]

境内の整備

実業家・茶人として知られる高橋義雄(箒庵)は護国寺の檀家総代を務め、大正から昭和初期にかけて境内の整備を行った。芝にあった松平不昧公の墓所が関東大震災で被害を受け、区画整理の関係もあって松江への移転が検討されているのを知り、護国寺への移転を実現させた。また園城寺(滋賀)にあった月光殿を実業家原六郎(明治財界五人男の1人)から譲り受け、本堂の西側に移築した。その他、5つの茶室、多宝塔(石山寺の多宝塔がモデル)、不老門(鞍馬寺にある由岐神社拝殿がモデル)を建設した[4]。これ以後、月光殿や茶室を利用して護国寺で大規模な茶会が開催されるようになった。


  1. ^ 『江戸東京学事典』(三省堂)護国寺の項
  2. ^ 岡本永司「護国寺の歴史について」pp9-10(『護国寺とぶんきょう』 (2008年)所収)。
  3. ^ 岡本永司「護国寺の歴史について」p11。
  4. ^ 岡本永司「護国寺の歴史について」pp11-12。高橋箒庵『茶道本山記』(1938年)。
  5. ^ 平成19年6月8日文部科学省告示第97号


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