日本の染織工芸
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先史時代の染織
日本列島で、人々が染織製品を作り始めた時期は明確にはわかっていない。金属製品、土器、石器などは長年土中に埋もれていても遺存するのに対し、有機物である染織品は材質脆弱で遺存しにくく、先史時代の染織製品について、実物からその歴史をたどっていくことは困難である。
日本列島では、織物に先行して編物が作られていたとみられる。縄文時代草創期 - 前期の遺跡である鳥浜貝塚(福井県)からは編物や縄の断片が出土しており、縄文時代前期 - 中期の三内丸山遺跡(青森県)からは編籠(通称「縄文ポシェット」)が出土した[15]。縄文晩期の遺跡からは間接資料ではあるが、布目圧痕のある土器が出土しており、この時代には布製品が生産されていたことがわかる[16]。この時代の織物はヤマフジ、クズ、シナノキなどの樹皮繊維や、苧麻(ちょま)、大麻、イラクサなどの草皮繊維を原材料として作られていたと思われる[17]。
弥生時代前期の遺跡である有田遺跡(福岡県)出土の銅戈(どうか)に付着していた平絹片(へいけんへん)が日本最古の絹の遺物とされている[18]。『日本書紀』には、仲哀天皇8年(199年)、秦の功満王が蚕種を献ったとある。『魏志』「倭人伝」によると、当時(3世紀)の倭国では麻を植え、養蚕を行っていたという。唐古遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)など弥生時代の遺跡からは織機の部品と思われる木製品や錘(つむ)が出土しており、吉野ケ里遺跡(佐賀県)出土の甕棺からは絹製品の断片が検出されている[19]。こうしたことから、弥生時代には日本列島で絹織物が生産されていたことは確かである。『魏志』「倭人伝」によると、景初3年(239年)、正始4年(243年)、泰始2年(266年)に倭から魏に斑布、倭錦、絳青縑、異文雑錦などを献上しているが、これらが具体的にどのような染織品であったかは判然としない。『書紀』によれば応神天皇20年(289年)に阿知使主(あちのおみ)父子が来朝し、大和檜隈で綾を織った。同天皇37年(306年)には呉の職工の呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)が移住したとあり、雄略天皇7年(462年)には百済の織工・定女那錦(じょうあんなこむ)が来朝し韓様錦を織ったという。このように、3世紀から5世紀頃の日本には、中国大陸や朝鮮半島から染織に関わる工人が渡来し、技術を伝えたことが窺える。古墳時代になると、銅鏡、刀剣などを包んでいた絹裂が各地の古墳から検出されているが、これらはいずれも断片であり、劣化が著しく、製作当初どのような製品であったかは判然としない。[20][21]
注釈
- ^ 経三枚綾とは、経糸が緯糸2越分浮いて、1越分沈む形を繰り返す。
- ^ 金襴は文緯に金糸を用い、金糸で文様を表した織物。中国では織金という。金糸は金箔を貼った紙を細く裁断して糸としたもの。日本の金襴が金糸のみで文様を表したものを指すのに対し、織金は金糸を用いた織物全般を指す点で意味に相違がある。
- ^ 緞子とは、地を繻子織とし、文様をその裏組織の繻子織で表した織物で、経糸と緯糸に異なる色の糸を用いたものを指す。ただし、名物裂で緞子と称されるものは、必ずしも前述のような組織でなく、経糸と緯糸に異なる色糸を用いたものを指している。
- ^ 印金は、帛面に糊や漆などで金箔を貼って型文様を表したもの。地には羅、紗、綾などが用いられる。
- ^ 武士などが羽織って着たコートのような衣服。
- ^ 練貫とは、経糸に生糸、緯糸に練糸(精錬した絹糸)を用いて織ったもの。
出典
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