人生の意義
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政治学・経済学における諸見解
社会学者・政治経済学者マックス・ウェーバーは『職業としての学問』(1919年)の中で、近現代人の自己同一性(アイデンティティ)について述べている[55]。科学に基づく近現代社会は、前提として進歩・進化し続けているため、必然的に近現代人は「進歩の過程の途中」で死ぬしかない[55]。そのため人々にとって「自己の生」は、常に不満足で無意味なものに映っているとウェーバーは言う[55]。
哲学における諸見解
遺伝子の乗り物・自然の手先
チャールズ・ダーウィンたちによれば、自然および「自然の手先」である生物(人間)に、「善」や「悪」のような倫理的価値は全く無い[45]。自然も生物も、ただ科学的に「あるがゆえにある」だけであり、この認識はフリードリヒ・ニーチェたちが広めた思想にも共通している[45]。外科医・科学者のロバート・ウィンストン(1940年~)によれば
人間は機械的な自然淘汰の産物であり、そのためニーチェ流の思想は人間を「自然の手先」と呼んだ[45]。これは、進化生物学者リチャード・ドーキンスが、人間を含め生物を「遺伝子の乗り物」と解説したことに類似している[45]。
哲学者の仲島陽一が言うには、ニーチェは医療科学や自然科学を引き合いに出すことで自らの主張に「根拠付け」しようとしており、例えばニーチェは次のようにも記している[56]。
ニーチェによると、生の本質とは「力への意志」である[58]。ニーチェが言うには、人生にとって重要なのは、「神」や「彼岸」や「真の世界」ではなく、「健康」や「栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題」である[46]。
「神」という概念は、生の反対概念として発明された。 … 「彼岸」や「真の世界」という概念がでっち上げられたのは、存在している<<唯一の>>世界を無価値にするためである。――われわれの地上の現実のための目標や理性や使命が存在する余地をなくすためである。
「魂」や「霊」や「精神」という概念が、それになんと「不滅の魂」という概念までがでっち上げられたのは、からだを軽蔑するためである。からだを病気に――「神聖」に――するためである。人生で真剣に考えられるべきすべてのこと、つまり栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである!
健康のかわりに「魂の平安」が持ち出されるが、――それは、懺悔の痙攣と救済のヒステリーを往復する周期性痴呆症なのだ![46]
あなたがね、大きな使命を果たすよう定められているのなら、なおさらあなた自身、傷つくでしょう。
答えはこうだ。こういう小さなこと――つまり栄養のことや、土地のことや、気候のことや、保養のことや、それから自分欲のアラを探すことですが――こういうことこそ、これまで重要だと思われてきたどんなことよりも、はるかに重要なんですよ。まさにこの点において、<<学習の転換>>をはじめる必要があるんです。
これまで人類が真剣に検討してきたことは、現実ですらないんですよ。たんなる想像にすぎない。もっと厳密に言うとですね、病気の人間たちの、もっとも深い意味で有害な人間たちの、劣悪な本能から生まれた<<嘘>>なんですよ。――「神」、「魂」、「徳」、「罪」、「彼岸」、「真理」、「永遠の命」などの概念は、みんな嘘なんです。[59]
教育学者・教育哲学者の菱刈晃夫によると、ニーチェ、マルキ・ド・サド、ショーペンハウアー等やその流れを継ぐ思想家たちの共通点は、自然法則や自然科学を重視して、信仰や伝統を批判する点である[45]。
ニヒリズム
ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える[60]。マルティン・ハイデッガーは、ニヒリズムというのは、「存在」が忘れ去られてしまい、存在を価値へと変容させてしまう動きであり、価値へと交換するために存在を減らしてしまうことである、とした[61]。
功利主義
功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされている[62]。
実存主義
セーレン・キルケゴールはは、たとえ他の人々と関わることは自分が傷ついてしまう結果をうみがちだとしても、それでも他の人々と関わり合うことで、そうすることによってこそ、意味のある人生が送れる、とした[63]。 アルトゥール・ショーペンハウアーによれば、美的な瞑想、他者からの共感を求めること、そして禁欲主義というのは、救い・救済・痛みからの逃避である[64][65]。
ニーチェに言わせると結局、人生をどう評価するか、ということは解釈の問題なのであって、世界自体が(客観的に)どうあるか、という問題ではないのである。そして人が想うことは、その人の特定の立場から来ているのだ、とした[66]。
論理実証主義
論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある[67][68]。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?[69]
プラグマティズム
プラグマティズムの哲学者ウィリアム・ジェイムズによると、人は人生が順調に進んでいるときは「生きる意味があるのか?」などとは考えないのであって[70]、人は自分の人生で何か壁にぶつかった時に「何のために生きている?」などと疑問に思うという[70]。ジェイムズに言わせると、「人生は生きるに値するか?」などという問の真の意味は「最近私の人生はつらいことが多くてやってられない!」ということであって、要は愚痴なのだ、という[70]。ジェイムズに言わせれば、「人生は生きるに値するか?」の答えは、「人生は生きるに値するから値する」であって、「人生の意味とは何か?」などという本質を求める問いは止めて、人生の実際的な効能に着目したほうがいいという[70]。人がどのように思うかということは、その人の人生で起きることに影響しており、ポジティブに考えて行動するからポジティブな結果が生まれる。人生は生きるに値すると思って行動していれば、実際に生きるに値する人生になる、とする[70]。
思想史学・宗教学における諸見解
反西洋・反近代・反合理化
バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートによれば、
という類の主張をした事例として、都市(バビロン)を戒めた一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム)がまず挙げられる[71]。このような主張は、ジハード戦士をはじめとするイスラム過激派や、毛沢東主義政権等の全体主義者も共通して行っている[71]。近代の資本主義社会(市民社会)は、西欧とアメリカを中心に建設され広まったが、そうした民営的・民主的な近代社会に対抗した人々は「田舎に対する都市の勝利」を、概念上で「都市に対する田舎の勝利」へと反転させ、
等からの脱出を約束した[72]。ただし、近代西洋から広まった合理的産業都市に敵対したり嫉妬・憎悪を感じたりする人々というのは、都市の生活がどんなものかを想像することさえ難しい田舎の住民・第一次産業従事者などではない[73]。むしろ、都市生活からもたらされるイメージや商品を身近に感じたり消費したりしている都会人・知識人・学者などだった[73]。20世紀のイスラム思想家・哲学者で最も影響力があった一人のサイイド・クトゥブ[74]によると、近代における人生や社会は「分割」されてしまっており、その原因は「経済競争(利己的な野心)」である[75]。
解決策としてクトゥブは
と述べた[76]。広範な政治活動を巻き起こしたイスラム哲学者・神学者としてクトゥヴ、サイード・ムハマド・タレカニ、アブララ・マウドゥディなどが居り、彼らは出身国や宗派が異なっていても、同じような世界観を共有していた[77]。イスラム、特にイスラム過激主義では、唯一神(アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている[78]。前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「敵」ということになる[78]。クトゥブは
と述べている[78]。
反分業化・反個人化・統一的人生観
宗教と全体主義は、「一体化」という点で共通していると言われる[79]。例えば近代社会の「政教分離」原則に反して、敬虔なムスリムにとっては政治・経済・科学・宗教は別のカテゴリに分離できない[80]。大日本帝国で「近代の超克」に参加した哲学者西谷啓治はムスリムではないが、彼の理想も、政治と宗教が継ぎ目無く一つの「全体」を形成すること、言わば教会と国家が合体することだった[81]。(彼の批判によれば、ヨーロッパ精神文化が崩壊した原因は自然科学や分業化だった[82]。)こうした統一的な国家宗教または精神的政治は、1930年代日本の京都から1970年代イランのテヘランにいたるまで、広く全体主義や反西洋思想(オクシデンタリズム)に見られる[81]。毛沢東の中国、ヒトラーの第三帝国ナチスドイツ、スターリン体制下のソビエト連邦でも、宗教施設から大学の自然科学系学部まで、あらゆる機関が全体主義思想に従うよう強制的に再構築された[81]。
歴史学や社会科学と異なり、 宗教的・ロマンチックな世界観ではこの種の「一体性」は「純真」に等しく、そして「純真」の時代が「堕落」の前に存在する[83]。「純真」・「堕落」・「救済」といった宗教的・全体的概念は古くからあるが、これらは宗教家だけでなくロマンチスト(ロマン主義者)も多用してきた[84]。
近代の産業社会を主導する啓蒙主義者や合理主義者たちの見解は楽観的で、人間の歴史を「より幸福でより合理的な世界へと直線的に進行するもの」と見なしている[84]。(「技術史観」では、「人間社会の歴史的発展を究極的に決定している要因は技術の進歩である」と考えられており、技術という普遍的発展に比べて文化・思想・社会等は常に技術より遅れている、とされている[85]。) 一方で、宗教的またはロマンチック(ロマン的)な人々は、悲劇的な感覚に基づいて自らの人生を「奈落の底」に位置づけ、自分たちは救済を希望しながら天を見上げている、と考える傾向がある[84]。奈落や堕落とは、すなわち「断片化」 ―― 例えば「真実の自己」から離れること、社会からの疎外、「自然」または「神」からの疎遠 ―― とされる[86]。
このような思想から見れば、労働と市場の関係もブルジョア的(市民的・資本家的)に分業されてしまっている[83]。よって非ブルジョア的な宗教家やロマンチストにとっては、「救済」は統一や調和への憧れを満たすものである[83]。彼らは非楽観的であるため、結果(目標達成)よりも過程(探求)を重視しており、よって「失われた一体性」を常に切望し続けている[83]。
宗教的・ロマンチックな政治や価値観では、「失われた過去の調和」への郷愁が根強い[83]。表面的種類としては中世ヨーロッパ、初期キリスト教、ロシア正教会全盛期、古代日本といった様々な「過去」が引き合いに出されるが、いずれにも「失われた一体性」という内容が共通している[83]。そのような「過去」は、「一体性」を回復する「偉業」の原点としても持ち出されている[83]。
精神的な「発展」・「進化」
比較宗教学者の大田俊寛によると、マックス・ウェーバーが述べたように近現代社会の人間は、無限に続く物質的発展や進化の中で生きている[55]。そのため近現代人は「自己の生」の、あるいは「魂」や霊的概念のよりどころを見失っている[55]。
しかし、近代に復活した様々な宗教的・神話的・伝統的思想は、肉体や物質を超越した「魂」や「精神」を再度持ち出し、それらを統一させる方向へ向かった[87]。この種の思想、「霊性進化論」は、近代側(科学や進化論)と伝統側(宗教や霊性論)との間における断絶を、精神的「発展」または霊的「進化」によって解決しようとしている[88][注 6]。
これら近代以降の諸宗教は、一見すると「正」の立場に位置しているようである ―― すなわち霊性進化論の目的は、「対立」(特に科学と宗教との対立)を克服したり、今までの様々な諸宗教の共通価値や普遍的英知を再発見したり、「神」的なユートピアを探求したり、精神的・魂的な反省と研鑽を重ねたりすることである[88]。しかしそれは、強烈な「負」の側面と表裏一体であり、結果として「純然たる誇大妄想の体系」に行き着いてしまうと大田は述べている[88]。その特徴として、
という三点が挙げられる[95]。
大田が言うには、そもそも近代化・産業化・科学化が、宗教的・伝統的社会へ多大な破壊的影響を与えた[96]。まず地動説によって地球は、「宇宙の中心」としての地位を追われた[96]。さらにダーウィンの進化論によって人間は、神的存在の創造した「特別な存在」という地位を失った[96]。つまり人間を含め生物は、神聖な存在によって創造されたわけではなく、突然変異と自然淘汰の「メカニズム」によって出現したということが、合理的方法で証明されたのである[96]。
近代社会の諸科学や諸学問から見れば、宗教的・伝統的な学知は、前近代的な「迷信」の寄せ集めでしかなくなった[96]。
確かに、近代以降にも「人間の生」、社会の持続的運営、精神といった事柄に問題はつきまとってきた[97]。宗教は近代社会の中で再解釈・再編され、そして宗教は、「人間の生」の問題や、進化論との対立をはじめとするもろもろの問題を解決しようとした[97]。しかし比較宗教学から見れば、そのような宗教活動は「霊性進化論」であり、「妄想の体系以外のものを生みだしえない」と結論できる[97]。
- 1 人生の意義とは
- 2 人生の意義の概要
- 3 概要
- 4 政治学・経済学における諸見解
- 5 文学における諸見解
- 6 参考文献
- 7 関連書籍
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