M20“スーパー・バズーカ”
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「バズーカ」の記事における「M20“スーパー・バズーカ”」の解説
2.36インチ(60mm)バズーカの口径拡大型の開発要求に対して、M9の改良型であるT90(制式化されM18となる)の基本設計をほぼそのままに、口径を3.5インチ(89mm)に拡大したものが開発された。1944年の後半には設計が終了、1945年の初頭にはT74の名称で試作品が完成したが、程なく戦争が終結したため、同年10月にM20として制式採用されたものの、量産は行われず、試作のみで開発計画は一旦打ち切りとなった。 T74(M20)はT90と同じく本体にアルミニウムを用いたため、大口径化されたにもかかわらず重量はM9とほぼ同等であり、新開発のM28 3.5インチ成形炸薬ロケット弾を用いて最大で11インチ(約280mm)の装甲貫通力を発揮できた。 朝鮮戦争において、第二次世界大戦中にはドイツ重戦車に対し多くの戦果を挙げたはずの2.36インチ(60mm)M9バズーカは、T-34-85に対する攻撃で十分な効果をあげられなかった。原理的にはM9バズーカの使用するM6A3対戦車ロケット弾にはT-34の装甲を充分に貫通する能力があったはずで、「確かに命中しているのに撃破できない」「命中しても装甲表面で弾かれる」「複数発を命中させても敵戦車が平然と行動している」という例が多数報告され、この事実は米軍首脳に大きな衝撃を与えた。 この原因については、大戦後5年が経過した在庫のロケット弾の炸薬が劣化していた、あるいは、2.36インチロケット弾の成形炸薬弾頭はT-34の装甲を貫通する能力はあったとしても車内の人間や設備に損害を与えるには加害範囲が小さかったなど、いくつかの説がある。この事態に際し、試作のみで計画中断とされていたM20が取り急ぎ製造され、教育部隊への先行配備すら中止して全数が朝鮮半島へ急遽空輸された。 こうして急遽投入されたM20は1950年7月の“大田の戦い”の中、7月20日の戦闘で初めて実戦で使用され、同日に発生した大田市街戦においては、アメリカ陸軍第24歩兵師団師団長ウィリアム・F・ディーン少将が、自らM20を担いで対戦車戦闘を行い、兵士たちに新兵器の威力を示したという逸話が残っている。 詳細は「大田の戦い」を参照 M20の投入により、米韓連合軍はようやくまともな対戦車戦闘が行えるようになり、M20は米韓連合軍にとって唯一のT-34を撃破しうる対戦車兵器として活躍した。開戦当初大きな脅威であった共産軍戦車は、1950年9月後半のソウル攻防戦の頃には「部隊の中で誰が一番多く撃破できるか」の賭けの対象でしかない」と言われる程までに脅威度が低下していた。 朝鮮戦争においては共産軍側も鹵獲した2.36インチ M9/3.5インチ M20の両バズーカを使用しており、これらは国連軍戦車にとって大きな脅威となった。中華人民共和国は鹵獲したM20をリバースエンジニアリングして国産化も行っている。 M20は原型のM20の他、発射筒本体とその構成部品を鋳造アルミニウムの一体成形とし約1ポンド(453.6グラム)重量を削減した軽量型のM20B1、「着火コード接続用の電極が露出式のため、汚損や破損が多い」という問題に対処するため、ロケット弾の発火機構をM1バズーカの初期型と同様に装填後に発射筒後端上部のスイッチを操作することにより本体とロケット弾が電気的に接続される構造に変更し、分割部の構造を強化、発射筒中央部にあった二脚および肩当ての前部にある単脚を廃止したM20A1が朝鮮戦争停戦後の1952年から生産されている。既存のM20B1も発火機構を-A1と同方式に改造する改装が行われており、改装された-B1にはM20A1B1の制式名称が与えられている。M20および-B1に対し、-A1および-B1A1は、発射筒後端上部にレバー付きのスイッチボックスがあることで識別できる。 なお、発射筒の前半部分は各型で共通のため、M9で問題となった「型が違うと部品が共用できず、前線補給処レベルでの修理に難がある」という点を解消していた。 M20 陸上自衛隊で使用された「89mmロケット発射筒」(M20A1B1)および「89mmロケット弾」山形県東根市陸上自衛隊神町駐屯地防衛館の展示品 M20B1 下面より 1950年7月20日の大田の戦いにおいてM20で撃破された北朝鮮軍のT-34-85アメリカ陸軍第24歩兵師団師団長ウィリアム・F・ディーン少将が仕留めた車両で、砲塔の側面にはその旨が記念に書き込まれている。 1953年3月25日、ドーザー付きのM46パットンの砲塔にバズーカ対策の金網を張っている海兵隊員。戦争終盤のこの当時には国連軍戦車は壕に待機し砲塔だけ出して砲撃支援任務を行うことが主体となっており、共産軍に鹵獲されたバズーカによる攻撃を受けて大きな損害を出していた。 ベトナム戦争中の1968年2月、M20を担いで走るアメリカ海兵隊員
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